私は、頭のいい人になりたいと思っていました。頭がいい人たちと一緒に働いて、もっと刺激を受けたいと願っていました。
また、国際的な人になりたくて、英語も勉強しました。いろいろな国に行って、海外経験を積みたいとも願っていました。
私はどんなことでも成功したいと願っていました。勉強もがんばりました。運動も、人間関係でも、努力しました。いつもがんばりすぎて、自分に過度のストレスをかけるほどでした。しかも自分に対してだけではなく、周囲の人にもプレッシャーを与えていました。
部活でも「なんで、努力できなかったの?」「なんで、もっと練習しないの?」…と強い口調で、チームメイトを責めることもありました。
自分が失敗したときは「なんで負けてしまったんだろう?」「なんで、もっとがんばれなかったんだろう?」と自分を責めました。
大学1年生の秋学期、そんな私にも転機が訪れました。大学の英語の授業で、アメリカ人のクリスチャンに出会いました。そのクリスチャンから、初めて聖書の話を聞きました。
それまでの私は「この世界には結局のところ、真理など存在しない」と思っていました。でも同時に、こうも思っていました。「世界に真理が存在しないなら、生きるのはなんて無駄なんだろう。」「なんで私は、生きなくてはならないのか。」「結局、生きる意味って何だろう。」
そのアメリカ人の友人から、イエス・キリストこそが真理だと聞きました。
友人の話を聞き「もし真理がこの世界にあるなら、私にも生きる意味がある。」「私の存在にも意味がある。」「神さまが本当に存在するならば、私の人生にも目的があるかもしれない」とも感じました。
聖書の中に「わたし(イエス)が道であり、真理であり、いのちなのです」※1 ということばがあります。そのとき、イエスこそが唯一の救い主であることも聞きました。私はイエスを信じるのか、それとも信じないのか、どちらかを選ばなければならないと思いました。
もし聖書が真実ならば、イエスを信じた場合、新しい「いのち」が与えられます。肉体的ないのちだけではなくて、死んだ後にも永遠に生きる「いのち」が与えられます。このことを聞いたとき、「永遠のいのち」を持つなら、平安や安心感を心に持つことができると感じました。
私がイエスさまを信じると決めたときに、新しい人生が始まりました。それは、まったく新しい人生でした。
もう自分の幸せのために、生きる必要はありません。自分の満足のために生きるのでもありません。神さまが与えてくれた人生を、イエスさまとともに生きていくのです。人生を神さまのために生きるように、私は変えられました。
それまでの私は、自分がした行動にアイデンティティを置いていました。自分がすることで、人から評価されたいと願っていました。周りの評価を求めて、がんばってきました。人から「あなたには価値がある」と言ってもらうことが、それまでの私の生き方でした。
でもイエスさまを信じてからは、私がすることではなくて、イエスさまがすでに十字架の上でしたことが、私のアイデンティティになりました。
イエスさまの十字架の死で、私の罪はゆるされました。イエスさまの復活を通して、私にいのちが与えられました。イエスさまが私のために成したことが、私の生きる意味となりました。
神さまが私をどう見ているのか、神さまが私をどれだけ愛しているのかが、私のアイデンティティになりました。もはや、無理をする必要はなくなりました。
今や、人からの評価のために、がんばる必要もなくなりました。たとえ、がんばる必要があっても、それは私ではなく、相手のための努力です。また、神さまの栄光のために貢献したいという動機からくる、がんばりです。もはや、そのがんばりには、辛さや、苦しさはなくなりました。
むしろ私の心は平安で満たされています。
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脚注:(1) ヨハネ14:6
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