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健全な自尊心

自分に失望していませんか。どのように健全なセルフイメージを保つことができるのでしょうか。

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A. リー

理想の自分と実際の姿の違いに、気がつく瞬間はありませんか。理想の自分とのギャップに、恐怖心すら覚えるものです。本当の自分に向き合うことは、勇気がいることです。「自分が嫌いだ。」「ありのままの自分を受け入れられない…。」心の本心を言葉にするだけで、心の落ち着きがなくなるものです。

自分に失望していませんか?

私たちは、理想の姿とかけ離れた自分を知っています。人からはそう見えなくても、自分の現実に目を背け、嫌悪感すら感じるものです。

もしかすると、人生がバラバラに砕けるような、悲惨な事件に遭遇したことがあるのかもしれません。人生が破綻する瞬間を覚えているのかもしれません。自分が嫌で、朝ベッドから起きれない日もあったことでしょう。

「こう行動するべきだったのに…」と後悔し、心に罪責感を抱いているでしょうか。人に迷惑をかけ、自責の念に駆られているのかもしれません。

人から受けた不条理な仕打ちで、怒りの感情を抱えているのかもしれません。

自己嫌悪

アメリカのシンガーソングライター、パセク&ポールの楽曲に、この自己嫌悪の感情をみごとに描いた作品があります。

「もしだれかに見られていたら? もし皆がそれを知ったなら? 皆は好意的に受けとめてくれるだろうか?それとも、憎悪するのではないだろうか?」

「自分のありのままの姿を知ったら、だれもが私から離れていくだろう…。」こう私たちは考えるものです。「本当の私を、だれも愛してはくれない」と堅く信じているのです。

「お前は愛されていない。」「お前に愛される資格などない。」こんな否定的な言葉が、頭の中を巡ります。

「私なんて、何の価値もない…。」こう感じる弱い私を心の奥底に押し隠し、人は何もなかったかのように生きるものです。自分が嫌いなことも認めず、見ないふりをします。心の状態を無視し、自己嫌悪する自分を誤魔化そうとします。

しかし一度、自己嫌悪の大洪水があなたを襲うと、心のダムが一気に大決壊を引き起こし、自己嫌悪をする自分を、これ以上、無視できなくなるのです。

自分を愛せない

では、自己嫌悪にどう対処すれば良いのでしょうか。どうすれば、自分を愛することができるのでしょうか。自己嫌悪に対する最善の治療法はあるのでしょうか。

人から受けた嫌な経験は、たとえ自分に責任がなくても、心には傷が残るものです。逆に、私も人を傷つけ、相手の心に傷が負わせることもあるのです。

「私は愛される価値などない…」という心の声に耳を閉ざすことは、不可能です。心のどこかで否定的な声の方が正しいと感じる、自分がいるのも事実だからです。

だから「ありのままの自分を愛そう」と言われても、話はそう単純ではないと感じるのです。「自分を変える必要がある」と聞いても、そんなの何の役にも立たないと感じるものです。

どうしようもできない心の暴走

私も人に、怒りを爆発させることもあります。大切な人に、わざと相手を傷つける言葉を言ってしまうこともあります。ただ意見が異なるだけなのに、復讐心すらを抱くこともあります。相手を大切にするよりも、自己中心や身勝手な選択をする自分も知っています。

「あなたは何も悪くない」と人から言われても、私にとって何の慰めにもなりません。「そんな罪悪感を持つ必要はない」と言われても、ピンときません。「自分は本当はいい奴なんだ」と自己正当化して、自分を慰めても、本当の自分を見ないふりをしているだけなのです

本当の愛とは?

弱点が何もないから、自分は愛される価値があるという考えは捨てるべきです。あなたの内には当然、間違いも、問題も、弱点もあります。それでも、あなたが愛されているということを知る必要があるのです。

愛とは本当の意味で、現実的で、安定したものである必要があるのです。

私たちは経験上、人から受ける愛に失望させられます。人からの冷たい評価で、深く傷つけられ、自己嫌悪にも陥ります。人の愛は部分的で、一時的、一方的なものです。人のもつ愛では不十分なのです。私たちは完全に、永遠に愛される必要があるのです。

私は、心から信頼でき、私のことを完全に理解し、完璧に受けとめてくれるひとりの存在に気がつきました。その存在こそが、私を創造した神です。神の愛を、私たちは現実のものとして感じることができるのです。

神の愛

神はこう語ります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実な愛を尽くし続けた。」※1

神は全人類を創造しました。神は、私たち一人ひとりを、よく知っています。その神が無条件に愛しているのです。

古代イスラエルの王、ダビデは聖書の詩篇の中でこう書いています。

「主(神)よ、あなたは私を探り、知っておられます。あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそのすべてを知っておられます。」※2

神に知られているとは…

人から完全に受け入れられていると感じるためには、ただ自分に対する見方を変えるというだけでは、不十分です。自分の今のありのままの姿でも、恥ずかしさを感じず、自由でいられるには、単に自分自身に対する評価を変えるという「自己啓発」だけでは無理なのです。

健全な自尊心を持つためには、まず「あなた」という存在が新たにされる必要があるのです。あなたがイエスを信じるとき、神との関係が始まります。新しい「あなた」という存在に変えられるのです。

神の愛を体験するとき、新しい存在にあなたは変えられます。神の視点から自分の人生を見るようになります。神の真理に導かれる「自由」を体験します。神との愛の関係は、人との関係では味わえない特別なものです。

神の無条件の愛について、イエスは以下のたとえを用いて説明しています。

父なる神がしたこと

ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。

それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。

そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。※3

あなたも受け入れられている

神のところに来る人はだれでも、神は受け入れてくれます。神のこの愛を示すため、イエスはこのストーリーを話したのです。

私たちは自分の努力で、自分を変えようとします。しかし神の方法はまったく違います。神は愛をもって、私たちの人生を変えます。

イエスはこう語ります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」※4

ありのままで愛されている

自分の人生を変えたいと願う私たちの心を、イエスはよく理解しています。イエスは、内側から私たちが物事を見る視点を変えます。

イエスの視点で人生を見るとき、私たちは真の自由を得ることができるのです。イエスはこう語ります。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」※5

あなたが神に愛されているのは、あなたが良い人であるからではないのです。またあなたが愛されるのに値する条件を持ち合わせているからでもありません。神は、あなたに弱さや罪があっても、あなたをありのままで愛し、受け入れています。

私たちの弱さは…

しかし、あなたの罪を軽視しているわけではないのです。人が罪を犯すとき、被害を受ける人が出てきます。被害者には、大きな痛みが生じるわけです。

人からの虐待やハラスメントを受け、暴言を吐かれるとき、私たちは心には大きな傷が残ります。私たちが言葉でも、行動でも、人に暴力を振るうとき、相手に心理面でも苦痛を与えているのです。人を無視し、自己中心な行動をとることで、相手に感情的に傷つけることなのです。

同時に、人の罪は神の心をも傷つけます。罪は神の聖さ、神の愛に対する冒瀆でもあるのです。

しかし救い主であるイエスは、それでも私たちに近づこうとしています。イエスは十字架の上で、私たちの罪の代価を、代わりに支払ったのです。

イエスは人の罪の罰を、自ら背負い、十字架に釘づけられました。イエスの十字架の死によって、私たちの罪はゆるされるのです。

イエスはその死から3日後に、死からよみがえりました。イエスは今、完全なゆるしと永遠のいのちを、私たちに与えています。

私たちが誠実な行動を取ることを、神が求めているのではないのです。ただ神の子イエスを信じ、神との関係が始まるとき、神はその約束の通りに、私たちを受け入れてくれるのです。

イエスはこう語ります。「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりはしません。」※6

神の愛の視点で自分を見る

神は、低いセルフイメージから抜け出すために、特別な解決策を与えています。ただ自分の弱さを見ないようにするのではありません。神の視点を得て、神が見ているように自分の弱さを見ることができるようになるのです。

また神の優しい視点で、私たちの弱さが人に与える影響を理解できるようになるのです。自分の弱さに向き合うならば、ますます自己嫌悪に陥るのではと不安に感じるかもしれません。でも、その心配は不要です。

あなたに弱さがあっても、神はそれでもあなたを愛しています。自分の弱さを直視する中で、神の愛を信じて、自分を愛し続けてください。イエスは必ず、安心を与えてくれます。

同時に神は、あなたの人生がより良いものに成長することを願っています。神は、あなたが自分を苦しめる選択を放棄してほしいと願っているのです。

健全な自尊心の回復

イエスはあなたの最高の友人です。あなたの低いセルフイメージをそのままにしておきません。私の罪や弱さを認めるように優しく語りかけ、より良い道へと導いてくれます。

私たちは、イエスの愛の中に、真の自由を見出すのです。低いセルフイメージとの心の中の戦いから少しずつ解放されます。自己嫌悪に縛られることもなくなります。

イエスはあなたの内面のすべてを知っています。あなたの弱さにもかかわらず、あなたを完全に受け入れています。イエスの確かな愛が、私たちの自尊心、アイデンティティーを回復させます。

神は完全な方です。この神だからこそ、あなたを完璧に愛することができるのです。

あなたはこの神との関係を持ちたいですか。神の無条件の愛を知りたいですか。神があなたを創造しました。創造主である神の視点を持つとき、あなたは自分の人生を正確に認識できるようになるのです。

あなたもこの神、イエスを知りたいと思いませんか。イエスとの関係を持ちたいと願う方は、以下の記事をご覧ください。

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脚注: (1) エレミヤ31:3 (2) 詩篇139:1-4 (3) ルカ15:12-24 (4) マタイ11:28,29 (5) ヨハネ8:32

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