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希望をもって生きる

若くして、HIVに感染。当初、感染の現実を見ないように振る舞う著者のスティーブ。その後、周りの人々への責任転嫁や自己憐憫から、希望をもって病気に向き合うように変えられた彼の体験をご紹介します。

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スティーブ・ソーヤー

こんな話を聞いたことがあります。アメリカ東部メイン州の海岸に沿って、アメリカ海軍の軍艦が濃霧の中、航行していました。その夜、操舵室の見張り役であった士官候補生が、かすかな光がこちらに近づいて来るのを発見。すぐに船長に報告しました。

「本船に向かって来る光が見えます。まだ遠いのですが、どうしましょうか。」 船長はその船に「航路をこちらに譲るように信号で知らせろ」と命令します。

すると、相手から返事が来ました。「そちらがコースを変えるべきだ。」船長は再び、航路を変えるように、相手に信号を送らせました。でも、戻ってきた返事は「それは違う。そちらが針路を変更すべきだ。」

そこで、最後通達として、戦艦から相手に信号を送りました。「こちらはアメリカ海軍の軍艦だ。すぐさまコースを変更せよ。」

すると返信がありました。「航路を変更するのはそちらの方だ。こちらは灯台だ。」

この話は、人がどのように痛みや問題に向き合うべきかを表しています。私たちは、状況に合わせて自分を変えるよりも、むしろ状況を変えたいと願うものです。私の人生がその良い例です。

HIVに感染

私は生まれたときから、血友病を患っていました。血友病とは血液の病気です。生まれつき「血液凝固因子」というタンパク質が不足しているため、小さな傷でも出血が止まらなくなる病気です。私の場合は、骨と関節の継ぎ目が、常に腫れていました。

血友病の治療に、献血から作られる「血液製剤」が用いられます。1980年から83年の間、私に注射された「血液製剤」の中に、HIVウィルスが紛れ込んでいました。結果、私もHIVに感染しました。またのちに同じ「血液製剤」から、C型肝炎にも感染していたこともわかりました。

現実逃避

私がHIVに感染したことを、初めて医師から伝えられたのが、高校2年生のときです。HIV陽性の現実に打ちのめされました。当初私は、HIVに感染した事実を受け入れることができませんでした。まるで、何もなかったかのように装って、生きていました。

HIVは感染しても、すぐに症状が出ないウィルスです。私がHIVに感染したことは、だれにもわかりません。私はまるで、HIVに感染していないように振るまい、生活していました。両親も、私がHIVに感染したことを受け入れられなかったようです。母はよくこう言っていました。

「スティーブ、元気そうね。健康的にも問題なさそう。そうよ。絶対に問題なんかないわよ。」

問題に対して、見ないふりをすることは簡単です。しかし周囲に感染を広げる危険は、現実的に存在するのです。

もしHIVに感染していなければ、指先の切り傷から出血しても、それほど注意を払う必要はありません。しかし私がHIV陽性の事実を医療機関に伝えなければ、治療に携わる医師や看護師、救命救急士を、HIVに感染させるリスクがあるのです。

危険な現実を否定するなら、さらに大きな痛みが生じます。長い間、HIV感染を否定しても、必ず事実が表に出て来る時がきます。むしろ問題は次第に大きくなり、ついに自分の手では追えなくなるのです。

HIV陽性であることを3年間、否定することができました。しかし高校3年のとき、病状は悪化しました。AIDSの前兆が現われたのです。

T細胞は、体内に侵入した病原菌に対抗するリンパ球の一種です。T細胞の数値が200以下になると、AIDSの発症が疑われます。当時、私のT細胞の数値は、213まで下がっていました。病状が急激に悪化し、力もなく、食べてもすぐに吐いてしまいました。

これ以上、自分のHIV陽性を否定できなくなりました。HIVは、現実の問題だったのです。

責任転嫁

現実逃避は、もはや役に立たなくなりました。私には、現実打開の方法が必要でした。私は、今の病状を人のせいにしました。仮にだれかが私のところに来て「スティーブ、私の責任だ。ゆるしてくれ」と謝罪されたら、気分がスッキリすると考えました。

最初に、ゲイの人々を責めました。完全な責任逃れです。しかし冷静に考えると、自分の病気の原因を、あるグループの人々のせいにすることはバカげていることに、気がつきました。

次に私は神を責めました。当時の私は、まだ神を信じていませんでした。ただだれかがこの状況を支配しているとするなら、それは神に違いない……。そう考えて、神を責めました。

怒りと自己憐憫

痛みが増し加わるとき、痛みは怒りに変わります。怒りは憎しみになります。自分のするすべての行動が、怒りから出てきました。だれかが少しでも私を不快にする言葉を言ったなら、私は怒りを爆発させました。壁をパンチしました。自分の部屋を滅茶苦茶に破壊しました。

怒りが心を曇らせ、理性的に行動できなくなりました。愛する家族も傷つけました。もう一つ、今の痛みに向き合う方法は、ただ泣くことでした。泣いても人を傷つけません。泣くと気持ちはずっと楽になりました。

あるとき、私は自分の部屋に一人でいました。人生のどん底にいるように感じて、パニックになりました。病状も最悪で、体重もぐんと落ちました。私は叫び、神をののしり、壁をたたいていました。

そのとき、父が部屋に入ってきました。当時、父はアルコール依存症から回復しつつありました。AAという断酒会で「ハイヤー・パワー」と呼ばれる存在を、父は学んでいました。

父は私を見て、こう言いました。「スティーブ、お父さんはお前を助けることはできない。医者もお前を助けることはできない。お母さんもできない。自分でもどうすることもできないはずだ……。お前を助けることのできるのはただひとり、神だけではないのか。」

父はそれだけ言うと、部屋を出て行ってしまいました。

神が助ける?

神をののしった直後だったので「神に助けを求めて良いものか……」と迷いました。しかし、他にできることもありません。私はその場でひざまずき、涙ながらにこう祈りました。

「神さま、もしあなたがいるなら、私を助けてください。そうすれば、私もあなたのために何でもします。」

それから短い期間で、私の体重は不思議と元に戻りました。T細胞の数値も365にまで回復しました。良い兆候でした。本当にうれしく思いました。でもただそれだけでした。

「神さま、どうもありがとう。でも神さま、もう十分です。さようなら。」

新たな出会い

私は高校を卒業しました。私は大学に入学することができました。入学前の夏休み、クラス分け試験を受けに、大学に行きました。そこで私は、寮のルームメイトになる同級生と、初めて会うのです。試験を受けたあと、寮に向かうと、背が高く、やせたブロンドの男性がそこにいました。

彼はこう言いました。「やあ! 初めまして。気分がよさそうだね? これから俺たち、ルームメイトだ。よろしく。」

私は心の中でこう思いました。「きっと、HIVの僕のルームメイトになんかに、なりたくないだろう……」。

でもさすがに口ではこうは言いました。「もちろん。これからよろしく!」

私たちはルームメイトになりました。そして、生涯の親友になったのです。彼はクリスチャンでした。当時の私は、クリスチャンに対して偏見がありました。クリスチャンは偽善的で、人を見下すところがあり、人を責める人たち……。こういうクリスチャンの負のイメージがありました。しかし、私のルームメイトは、違いました。

彼は、ディスレクシア(発達性読み書き障害)を抱えていました。彼が勉強中、欲求不満に陥ることがありました。私だったら、壁をパンチして、モノを壊したくなります。しかし彼はそのとき、静かに目を閉じて祈り、一呼吸してから、勉強に戻りました。

私は、彼の態度に感心しました。「なぜ、モノに当たったりしないんだ。何かを壊しても良いだろうに……。」彼の行動に、私は驚きました。

海岸での出来事

彼は春休み、一緒にフロリダ州のデイトナビーチに旅行しようと誘ってくれました。旅行中、海岸での出来事です。彼は隣に座っていた、男性に声をかけました。最初は、互いに世間話をしていました。次第にルームメイトは、もっと深い話題に話を進めました。彼は、聖書が語るメインポイントを紹介し始めたのです。私はその話題には深入りしたくはなかったのです。ずっと葛藤を覚えてきた話題だったからです。

「こんな若さで自分は死ぬんだ」と考えるだけで、辛いことでした。しかも初対面の人とこんな深い話題を話すのは正直、気がのらなかったのです。この会話から抜け出そうとしました。

しかし彼らは、話を続けていました。ルームメイトは、クリスチャンの信仰を説明し始めました。私には、クリスチャンに対するイメージはありました。しかし実際、クリスチャンが何を信じているのか、知りませんでした。私は、ルームメイトがその男性に話すことを、隣で聞いていました。

神が与えてくれるもの

彼の話を今、完全に再現できる自信はありません。しかし彼がそのとき語ったことは、このような内容でした。

「確かに、俺は神を信じている。…神は人を、神との関係を持つ存在として造ったんだ。しかし人は、神との関係を持ちたいとは願っていない。神の愛をむしろ、うざったく感じるものだ。人は、神に自ずと反抗するものだ。人が、神に対して敵意をもち、神に消極的であったり、無関心であったりすることが、聖書が言う『罪』なんだ。この罪の結果、人は死ぬ。ここで言う『死』とは肉体の死と同時に、神との関係の死であり、神から引き離されることなんだ。」

ここまで聞いて、私は興味深い話だと思いました。私は質問してみました。「だけど神は、僕たちを愛しているんだろう?」

するとルームメイトこうは答えました。「神は愛であると同時に、義である方なんだ。義を無視した愛は、何の意味もないだろ?」私にはその意味がよくわかりませんでした。

彼はこう続けました。「世界中で一番好きな人を想像してみてほしい。命がけで自分を愛してくれる人を……。でもある出来事が原因で、その人を怒らせてしまったとする。2人の関係はどうなるだろう。ちょうど、神と俺らの関係も同じなんだ。神は俺らを、最大限に愛している。しかし人は、この神の愛を払い除けたんだ。」

彼は続けて、こう言いました。「でも、話はこれでは終わらない。神は俺たちを愛して、心配している。だから、人が受けるべき罪の刑罰を、神が代わりに引き受けてくれたんだ。神はそのひとり子イエスをこの地上に送り、イエスは俺たちの身代わりに十字架で死んだ。イエスは地上で罪を犯さなかったから、罪の刑罰を代わりに背負うことができたんだ。イエスが俺たちの罪の代価を、払ってくれたんだ。」

「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」※1

彼は熱意をこめて、こう続けます。「イエスは十字架の死後3日目に、よみがえったんだ。イエスは死に対して打ち勝ち、俺たちに永遠のいのちを与えている。だから、俺たちはただ死を迎えるわけではない。死んでも、たましいは永遠に、神と天国で暮らすんだ。」

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」※2

「それはすごいな。」私がこう言うと、彼はこう続けました。「神がイエスを与え、罪の身代わりに死んだのは事実だけど、この救いを受け入れるのか、拒むかは、自分で決めなければならないんだ。」

イエスを信じる

ルームメイトは、救いが必要だと神に願うことで、神の救いを受けることができると言いました。「ただ神の救いを受け取ればいいんだ。救いは恵みなんだから。自分の力で頑張らなくていいんだ。救いはあくまでも、神からの贈り物だ。」

神の恵みについて、このとき初めて聞きました。「信仰によって受け取る、贈り物なんだ。」彼は再び、こう付け加えました。

相手の男性は、この救いがほしいと言いました。そして、友人と一緒に祈りました。

「神さま、私はあなたに造られ、愛されていることを聞きました。私の罪をゆるすため、罪のないイエスさまが代わりに死に、よみがえられたことを感謝します。今、あなたに信頼します。どうぞ、あなたとの新しい関係のなかで、私の人生をともに歩んでください。アーメン。」

私も同じ祈りを心の中で、静かに祈りました。

死は永遠への入口

その瞬間、人生についての視点がまったく変えられました。それまで、夜寝る前、翌朝、自分が生きているのか、心配でなりませんでした。しかしイエスを信じたあと、死への恐怖がなくなりました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」※3

死ですべてが消滅するわけではないのです。死んだら、暗黒の世界に包まれるのでもないのです。死は永遠への入口です。死は、私をいのちがけで愛した神と、永遠にともに生きる天国への入口なのです。死への恐怖から、完全に解放されました。

その後、私の両親もイエスを信じました。私がイエスのことを両親に伝えました。その場で両親も、イエスを信じることを、神に祈ったのです。両親の人生も新しいものに変えられました。

私は、余命半年の宣告を受けました。それを知った両親は、私を旅行に連れて行ってくれました。両親にとって、息子が目の前で死ぬのを見守るほど、辛いことはありません。両親にも、どうしようもできないことでした。しかし今や両親も、私の死に向き合うことができるようになっていたのです。

私も、自分の死に向き合うことができるようになりました。それは、イエスが私の人生をともに歩んでいるからです。

天国への希望

皆さんにも、この天国への切符を受け取ってほしいのです。もしあなたが、自分ではどうすることもできない問題を抱えているなら、だれかそばにいてほしいと願うものです。イエスはあなたのすぐそばで、あなたを助け、あなたと人生をともに歩みたいと願っています。もしあなたがそう願うならば、今、一緒に祈りましょう。

「神さま、私はあなたに造られ、愛されていることを聞きました。私の罪をゆるすため、罪のないイエスさまが代わりに死に、よみがえられたことを感謝します。今、あなたに信頼します。どうぞ、あなたとの新しい関係のなかで、私の人生をともに歩んでください。アーメン。」

あなたが心からこの祈りを祈ったのなら、あなたと神との関係が今、始まったのです。この祈りで終わりではありません。神との関係は、一歩一歩、前へと進むプロセスです。日々、神に信頼して、あなたの願うこと以上に、神があなたに望んでいることを行うのです。

救いはあくまでも、神の恵みによるのです。人はだれもが、神のように完全になることはできません。神の救いとゆるしに頼るだけです。

人生、だれでも失敗はあります。何度失敗したとしても、イエスを信じる信仰を握り続けましょう。神の恵みを信頼して、歩み続けてください。祈ってください。聖書を読んでください。そうすれば、神があなたに望んでいることが、わかります。

イエスを信じるときに、心に平安が与えられます。それは、私たちが罪人であっても、イエスの十字架ですでにゆるされています。イエスを信じるとき、すでに天国への切符が与えられています。天国の希望をもつとき、心に平安がきます。この希望が、人生に安定を与えるのです。

読者の皆さんの中には、HIV感染の疑いがある方もいるかもしれません。血友病やC型肝炎などの重度の病気とともに歩んでいる方もいることでしょう。厳しい治療に耐えている方もいるかもしれません。また病気のご家族を看病されている方もいます。最後に、そんな皆さんにこの聖書のことばをお送りします。

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」※4

「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子(イエス)のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」※5

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[著者紹介]スティーブ・ソーヤーは1999年3月13日に、C型肝炎による肝不全で亡くなりました。生前、スティーブは彼の闘病生活の経験、そこで出会ったイエスにある希望を全米各地の大学で講演して、多くの大学生に生きる希望を与えました。スティーブは人生の最期にこう語っていました。「もう一度、大学で講演をしたい。僕の闘病の経験によって、ひとりでもイエスを信じる人が起こされるのなら、価値のあることだから……。」

脚注:(1) イザヤ53:6 (2) ヨハネ3:16 (3) ヨハネ5:24 (4) 1コリント15:55 (5) 1ヨハネ5:11-13

Photos by Guy Gerrard and Tom Mills © Worldwide Challenge


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