The Gospel Through A Click
キリスト教は宗教の中で一番嫌いでした。
キリスト教を毛嫌いし、キリスト教を始めたイエスさまという存在を憎んでいました。
聖書の一節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」※1 何だか弱い精神だと思いました。「ゆるしてください」という、弱っちい教えが大嫌いでした。
私の叔父の一人は海軍。もう一人の叔父は陸軍の出身でした。幼少のときから軍隊のこと、戦争のこと、日本のことをいろいろ聞いてきました。
私は戦争のことが大好きでした。特に、特攻隊の若者が、その命をもって日本を守る。家族を守るという心意気と覚悟を聞いたとき、子どもながらにしびれました。
「お国のために」「家族を救うために」という思いで、死をもって敵を防ぎ、国を守るという、特攻隊の精神に憧れていました。
2人の叔父は右翼でした。私もその影響で、右翼団体に入るほどでした。日本人の宗教的な思想は「当然、日本神道でしょう」と考えていました。
私にとって神々と言えば、日本にいる八百万の神々でした。特に私は、皇室も信じている天照大神を自分の主宰神として信じていました。自分の守護神としては、戦国武将の上杉謙信が守護神として掲げた毘沙門天・青龍を信じていました。
私は主宰神、守護神、そして私の先祖にも祈っていました。自分のできないことを、神々の力を借りて、成し遂げていこうと考えていました。高校から大学に至るまで、ガッチリと日本神道の価値観の中で生活していました。
そんな私の若い頃、キリスト教は大嫌いでした。イエス・キリストも嫌いでした。というのも、イエスさまの教えが「弱っちい」と感じていたからです。
人の弱さをキリスト教は認めます。キリスト教の創始者、イエスは十字架にかけられ、伝道半ばで死んでしまいます。自分の民族から殺されてしまうのです。
そんな弱い宗教を信じてどうするんだと思っていました。キリスト教のような弱い宗教を、この優秀な日本民族が信じるのなら、日本はどんどん弱体化するだろうと考えていました。
26歳の夏、当時アメリカに留学していた姉が帰国しました。私が車で空港に迎えに行きました。車の中で姉に「アメリカはどうだった?」と聞きました。姉は「いゃ、楽しかったよ。それでね。私、クリスチャンになったの」と言うのです。
そう聞いた途端「なにっ!?」私の毛という毛は逆立ちました。怒髪天をつくように、叫びました。「お前な。この木村家から耶蘇が出るなんて、とんでもない話だ!」
姉とは仲が良いんですが、家に到着し、姉にこう言い放ちました。「よし、この小冊子は日本神道の教えのダイジェスト版だから、これを読んで、頭を冷やせ。そして早くキリスト教から足を洗ってくれ。」
すると姉は「いいよ」と語りました。姉はカバンから小さな聖書を差し出して「じゃあね、あなたもこれを読んで。」
「おぉ、交換条件か!?上等だ。」
私は聖書を受け取り「読めよ。それもしっかりと!」こう言って、部屋を出る私の背後から姉が叫びます。「ヨハネの福音書から読んでね。」
姉との約束なので、聖書を読み始めました。聖書を読むと正直に「何だこれは?」と思いました。
イエス・キリストという存在が、当時の宗教家たちの高尚な教え以上に、権威ある教えとして心に迫ってきました。イエスはさまざまな奇跡を行いました。目が不自由な人の目を見えるようになり、死人をもよみがえらせました。すごいわざが次々に展開しました。
「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないなら、わざのゆえに信じなさい。」※2
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」※3
イエスがこのことばに触れたとき「何で一人間である、この人がそんなことを言えるんだ!?」と思いました。「私たち人間が生きていく道はまさに、自分だ」とイエスは語っていたからです。
私が今まで信じてきた宗教、神々とか、いろいろな理念や考えが、この聖書のことばによって、すべて砕かれてしまいました。
読んでいく中で「えぇ」と感じる場面に幾度も出くわしました。私のすべてが、イエスによって瓦解していったのです。
イエスは、十字架で罰を受けて、死んでいくのです。私が一番嫌いだったイエス・キリストが神で、私のために死んだ。「じゃあ、十字架の身代わりって、俺のためだったのか……。」
イエスの十字架の場面を読み、イエスを信じざるを得なくなりました。
今まで私が犯してきた罪、行ってきた楽しみ。たとえどんなことをやったって、今生きているこのとき、うまく行っていればいいんだ。楽しければ、それでいいんだ……。そう思っていた私のために、イエスは死んだ。
このイエスという方は単なる神というよりは、愛と恵みの方、救い主。「本当にあなたは、神だったんですね。」こうイエスの前に平伏さざる得なくなったのです。
自分の既成概念、凝り固まった信念、信じていた宗教の全部が、このイエスという方によって砕かれました。
そこにイエス・キリストという、2000年前に地上に降誕し、33年間の生涯を歩んだ。このお方が、私の思いの中に降り立ってくださって、十字架の血で私のすべての罪からきよめてくれました。
「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いの交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」※4
この新約聖書1ヨハネ1:7にあるように、私の罪のすべてをきよめ尽くし、新しい者、神の子どもとし、義なる者と、私をしてくださったのです。
最高の恵みです。地獄に落とされても仕方がないこんな私が、救われるなんて、とんでもない。
26歳の夏、私はイエス・キリストを信じるに至りました。
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注:(1) マタイ5:39 (2) ヨハネ14:11 (3) ヨハネ14:6 (4) 1ヨハネ1:7
聖書:新改訳聖書2017©️2017新日本聖書刊行会
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