ペリー・マーシャル
自然災害で避難生活を送る被災者の方々。家族の介護を担う方々。毎日三食、十分に食べられない子どもたち。派遣切り、雇い止めで、路頭に迷う若者たち。犯罪被害者とそのご家族……。社会が直面する悲惨な現状に、心が痛みます。
世界に目を向けると、気候変動と砂漠化で、住む場所を追われる人々。貧困や飢餓。先進国の市場論理で、低賃金で働かされる人々。性的奴隷や虐殺。戦争による難民……。社会の不条理を見ると、怒りが湧いてきます。何とか、苦しむ人々の助けになりたいと、私たちは願うものです。
「弱肉強食」「適者生存」「人生の勝ち組・負け組」……という言葉が、現代社会の負の現実を表しています。「強者が弱者の上に立つ」のが当たり前の現実を、私たちはしぶしぶ受け入れて生きています。
しかし「適者生存」の原理は明らかに、私たちの良心に反しています。強者がその報酬を受けることに同意はしつつも、弱者がその犠牲になるべきではありません。
人間の本性には、思いやりの心があります。人が何かを選択するとき、ただ進化論的な「適者生存」の原理に基づき、自分の益になるものだけを選ぶわけではないのです。むしろ私たちは、自分の利益とは正反対なことを選択することもあるのです。
人は、自分の命の危険をも顧みず、海で溺れる子どもの救助に向かうものです。仕事を休んででも、災害の被災地に出かけ、被災者の助けをしたいと願うものです。食糧危機に直面した人々の食糧援助の募金にも協力するのです。
なぜ、私たちは人を助けようとするのでしょうか。積極的にボランティアとして手をあげ、困った人の役に立ちたいと願うのでしょうか。ときに命の危険をも顧みず、なぜ人はボランティア活動に参加するのでしょうか。自分の利益にはならない「人助け」の行動に、人はなぜ充実感を覚えるのでしょうか。
それは、人の心に「思いやり」の心が、組み込まれているからです。南アフリカのカトリックの大主教、デスモンド・ツツ神父は「人は善を行うために創造された」と語っています。
神父は続けて、こう語ります。
「この世界で、最も賞賛され、最大の尊敬を受ける人は、だれもが目を見張る輝かしい経歴の人物ではありません。例えば、肉体美を誇り、積極的で、『人生の勝ち組』を評される人が必ずしも、人から尊敬されるわけではないのです。」
「いや、むしろマザー・テレサ、ダライ・ラマ、マハトマ・ガンジー、ネルソン・マンデラのような、一見弱いように見える人こそ、人々の尊敬を集めるものです。」
「なぜ『人生の負け組』と評される人が、人々に尊敬されるのでしょうか。それは、彼らが何よりも善良な人々だからです。人々は彼らの存在を喜び、歓喜をもって迎えます。彼らの存在が、私も同じ人間であって良かったと思わせてくれるほどです。」
「人はみな、善を行うために造られています。神が人を創造しました。人が互いに笑い合い、互いに優しさを示し、思いやりをもって互いに分かち合い、仕え合うために、神は人を造ったのです。」※1
このツツ神父の見解について、あなたはどう思いますか。神父の視点は、聖書から出てきたものです。人の人生には、自らの「生存」よりも大切な、偉大な目的があるのです。
以下の聖書箇所は、人の人生に対する神の目的を語っています。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」※2
「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」※3
人は、神が与える良い行いに歩むように造られました。誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むように、私たちは創造されたのです。
聖書は、神が全世界を創造したと明言しています。しかし神の存在を否定し、この世界も、すべての動植物も単なる「進化」の結果だと仮定すると、すべてが偶然にできあがったものに過ぎなくなります。目に見えるモノがすべてになります。目に見える存在しか認められなくなるのです。
この「唯物論」的な考えでいくと、人は目に見える物質としの「肉体」しか存在しないことになります。当然、人には良心もなく、善を行う動機を与える要素も存在しなくなります。
「唯物論」的見解によると、人は進化の過程であらかじめ組み込まれた化学変化に基づいて生きていることになります。
確かに、人には脳があります。しかし唯物論者は、目には見えない「心」の存在は認めません。肉体はあっても、目には見えない「魂」は存在しません。
唯物論では、人は物質に過ぎず、物理的な「肉体」が存在するだけです。人の行動の基準はただ「適者生存で自分が勝ち残っていけるか」だけです。人は結局、進化した動物に過ぎないからです。
人は単なるモノ、物質に過ぎないので、「自由意志」も「良心」もないというのが、彼らの主張です。ここに唯物論の自己矛盾があります。
しかし人には、道徳的の原理で物事を選択することもあるのです。例えば、地球環境を考えて、レジ袋の利用を減らそうとします。資源保護のため、節水を呼びかけます。
気候変動を抑えるため、化石燃料の利用をやめて、再生可能エネルギーに転換しようとします。なぜ人々は、自分の益にはならない「自己犠牲」を呼びかけるのでしょうか。
唯物論者は「適者生存に勝ち残れるか」という「判断基準」を、人は進化の過程で身につけたと主張します。それならば、なぜ人は自分が犠牲になるような決断をあえて下すのでしょうか。
作家のディネッシュ・ドスーザは、人がもつ内なる動機について疑問を投げかけています。
「進化論は、人がなぜ利己的な動物なのかを説明している。しかし人はなぜ、利己的であってはいけないのかを説明する上では、進化論は大きな困難に直面している。」※4
神は人を、思いやりの心を持つように造りました。ツツ神父はこう語ります。
「人の役に立てたとき、自分が輝いていることに、気がつくでしょう。人に仕えることで、相手に喜んでもらったときに感じる、何とも言えない充足感。だれもがこの充足感を体験したことがあるはずです。」
「逆に、私たちは何か悪いことをしたとき、身体があなたに知らせてくれます。胃がキリキリと痛み、血圧が上がります。怒りや憤りが、あなたの身体に異変をもたらすのです。」
「人の本質は、善良に生きることにあるからです。私たちは良い行いをするために造られたのです。」※5
人が苦しむ姿を、あなたは見たいですか。むしろ弱さを感じる人に、助けの手が届くことを、私たちは期待しています。公正で平和な世界を、私たちは望んでいるのです。それは弱い人が最善の助けを受ける世界を、神が望んでいるからです。
ヒンズー教、仏教、イスラム教など、キリスト教以外の世界の主要宗教でも、イエス・キリストの存在は高く評価されています。イエスの人生はとてもユニークです。イエスの価値観は、崇高なものでした。
イエスはこう約束しています。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」※6
正直に言うと、人の心は本来、利己的で貪欲。人を殺すことすらできます。貧しい人々、苦しむ人々、家を失った人々を無視することも平気でできます。人の利己的な本性「罪」こそが、人が生きる上での最大のジレンマなのです。
アメリカ国立衛生研究所所長で、ゲノム研究の大家、フランシス・コリンズ博士は、人の本性に関して、次のように大統領朝食会の講演で語っています。
「私たちは、人間が究極的には善であることを信じたいものです。しかし、このかすかな希望は打ち砕かれることが、実に多いのです。人間同士は互いに利己的で、暴力的です。人はこの世界を救う希望を、科学の発展に求めます。しかし科学は、善よりも、悪に利用されることの方が多いのです。」※7
人の心の内面にこそ、問題があるのです。私たちの心にはよく、二つの相反する動機が交錯します。
一つは自己中心的な動機です。「人を犠牲にしてでも、自分の益になることを追求したい」という思いです。
もう一つの動機とは「自分が犠牲になっても人のために仕えたい」という願いです。動物には感じ得ない、心の内なる葛藤です。
ボランティアを行うときも、この心の葛藤は常につきまといます。この活動は自己満足のために行っているのか。それとも、本当に相手のことを思ってやっているのか。自分が周囲から評価され、賞賛されることを望んでいるのか。それとも目立たなくても、人のために、社会のために忠実に仕えられるのか。
表面的には同じ慈善活動であっても、それが売名行為なのか。それとも犠牲をもいとわずに相手に仕える奉仕なのか。常に動機が探られます。
キリスト教の社会奉仕であれば、ただ信者を増やしたい目的で行っているのか。それとも、仕える相手の必要に答えるためにやっているのか……。たえず二つの相反する動機が、心の中でせめぎ合っています。
この二つの相反する心の葛藤、解決策はあるのでしょうか。私たちの内なる良い動機の方が、自己中心の心に勝つことができるのでしょうか。
一つ明確なことは、自分ひとりの力では、自己中心な動機に勝利することはできないということです。
イエスを信じるときに、心の動機が整えられます。神の愛を体験するとき、人は自分の限界を超えることができるのです。神は内面から私たちを造り変えます。自己中心的な考えは、取り除かれます。人を深く思いやる心が与えられます。
困難な状況の中でも人に仕えるためには、イエスを信じる信仰が必要です。それはなぜでしょうか。
聖書はこう語ります。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」※8
神の無条件の愛を体験するとき、人に対する私たちの見方が変わります。神の変わらない愛に確信を持つとき、私たちも無償の愛をもって、人に仕えることができるようになります。
新約聖書ヨハネの福音書の冒頭で、使徒ヨハネはイエスについてこう紹介しています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」※9
「それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された。また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らは羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」※10
イエスのあわれみは、弱り果てて倒れている人々に向けられました。神の子である方が、人としてこの地上に来ました。それは人々に仕えられるためではなく、かえってイエスが人々に仕えるためでした。
イエスは全人類の罪の身代わりとなり、十字架の上でいのちを与えました。それは罪の奴隷である私たちを、ご自分のいのちで代価を支払い、買い戻すためでした。
「人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるために来たのです。」※11
神が先に人を愛しました。それは人が神の愛を受け、神に愛されたように、他の人々を愛するようになるためです。
イエスは語ります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。…わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」※12
「人の助けになりたい」という心は、だれもが持っている特質です。それは神が人を、他の人に仕えるように造ったからです。
しかし、ボランティア活動に参加するとき、私たちの心の動機が問われています。表面的には同じ慈善活動をしていても、それが売名行為か、本当に相手の方を思いやる動機から来ているものかが問われています。
犠牲をもって仕える模範は、まさにイエスにあります。キリスト教が社会奉仕に熱心なのは、イエスが犠牲をもって人に仕えたからです。ボランティアの本質は、まさにイエスの模範にあるのです。
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脚注: (1) http://spiritize.blogspot.com/2005/12/desmond-tutu.html (2) エペソ2:10 (3) ミカ6:8 (4) Dinesh D'Souza, Life After Death, Regnery Publishing, Inc., 2009. (5) Archbishop Desmond Tutu, http://www.achievement.org/autodoc/page/tut0bio-1 (6) マタイ5:6-9 (7) Francis Collins, director of the Human Genome Project, speaking at a White House prayer breakfast, February, 1, 2007 (8) 1ヨハネ4:19 (9) ヨハネ1:14 (10) マタイ9:35,36 (11) マルコ10:45 (12) ヨハネ15:9,12
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