良い会社に入って、良い給料をもらうことが、幸せへの一番の近道だと思っていました。たくさんのお金を稼ぎ、成功する人間になろうと、自分にすごいプレッシャーをかけていました。
大学受験にも失敗して、志望していた大学には行けませんでした。自分は成功している人よりも、遅れている。今いる大学で勝ち抜いて、幸せをつかみ取らなければ…と思っていました。
確かに周りの人は、良い大学に入って、良い会社に入ることが、価値あることだと語ります。でも、本当に私がやりたいことは何か。私は何をしたら喜べるのか。何をしたら、幸せだと心から思えるのか…。自分でもよくわかりませんでした。
私の心のコア(核)となる部分を知りたいと思いました。周りの評価や価値観に左右されない、自分の核となる価値観を見つけたいと願っていました。
大学4年生のときに、アメリカのテネシー大学に留学しました。そこで出会ったのが、エミリーです。彼女と何回か会う中で仲良くなり、親友になりました。彼女の家にも、何度もお邪魔しました。
私には今まで、クリスチャンの友だちはいませんでした。エミリーはクリスチャンで、目に見えない神に心から信頼していました。彼女が神に人生をささげる心の態度が、不思議でたまりませんでした。
イエス・キリストが死んで、3日後に生き返った…!?。そんな怖い話は到底、信じられませんでした。私は生涯、クリスチャンにはならないと考えていました。しかし、クリスチャンの考え方は、どこか魅力的でした。
人生を豊かに生きる上で、クリスチャンの価値観を知るのも損にはならない。むしろ聖書的な価値観のいくつかは、積極的に自分の生活に取り入れてもいいかな、と思っていました。
当時の私はまだ、人生は自分の力で切り開くもの。何でも自分で決めて、実行していくもの。人生の成功は、すべて自分にかかっていると思っていました。そんな私には、エミリーの生き方はとても新鮮でした。
9ヶ月の留学生活を終えて、日本に帰国しました。就職活動も無事に終わりました。そんなある日、足にしこりがあることが気になって、近くの病院を受診しました。すると、そのしこりはガンであることがわかりました。人生で初めて、入院と手術を経験することになりました。
無事に手術は終わりました。しかし手術の翌日、身体が本当に痛くて、指一本さえも動かせないほどでした。なんて自分はこんなに無力なんだろう。痛みで指一本すら動かせない私が、自分の人生をコントロールするなんて到底無理だと実感しました。
すべてを自分で背負い、自分の力で切り開かなければいけいないと思っていた人生…。でも、もう私の手には担いきれません。私の努力で、この足が治るわけでもありません。すべてを医師に頼らなければならない状況でした。このような経験は初めてでした。
私が入院していた同じ病棟に、男子高校生が入院していました。彼は足の腫瘍のため、片足を切除していました。同じリハビリ室で彼を見るたびに、何で私の足は残ったんだろうかと、考えました。
また隣のベッドの女の子は、ガンが大きすぎて、手術もできませんでした。まず抗ガン剤で腫瘍を小さくしてから、手術をするか、医師が判断するそうです。「生きるか、死ぬか」の瀬戸際を、彼女は生きているんだと知り、心が痛みました。
何で、私は生かされているのか?なぜ私が生き残ったのか…考えました。だれが人の生死を決めているのか。だれが私の足を治して、もう一度、歩くチャンスをくれたのか。私はこの「だれが…」という疑問を突きとめようとしました。
もしその「だれか」が神さまならば、その神さまとはイエス・キリストなのか…。自分で確かめる必要がありました。
不思議なことに、アメリカ人の親友エミリーが1年間の宣教活動のインターンのために来日したのが、その時期です。私の入院生活の間、エミリーは毎日一緒に過ごしてくれました。
退院してから、エミリーに誘われて、教会に行ってみることにしました。教会に行って「私を生かしてくれたのはだれなのか」「もしそれが神さまなら、その神さまとはどのような神なのか」を知りたいと思っていました。
最初に教会に行った日、牧師が礼拝で語った説教に鳥肌がたちました。「神さまがだれなのか知りたい」という疑問に、牧師はタイムリーに説教の中で答えてくれたのです。説教を聞きながら、私の疑問が「答えられている」と実感しました。でも、偶然だったに過ぎないとも思いました。
それから何回か、教会に行くようになりました。でも、私の中には葛藤もありました。「私は宗教に入り込んでしまっているのではないか…」「私は、正気を失ったのではないか?」自分を疑いました。今まで信じていた価値観がまったく変わることに、恐怖を覚えました。
目に見えない、この神さまを信じていいのか。今まで自分なりに一生懸命生きてきたのに、人生の舵を急激に変えていいのか。クリスチャンの世界に飛び込んでもいいのか。すごく不安でした。今、身を引かないと危ない…。こうも思っていました。
その日曜日もエミリーと一緒に、教会に行きました。その日の礼拝は「頑なな心からの解放」がテーマでした。謙遜になって、プライドで頑なになった心を開いていこう、というメッセージでした。
「神さまが私を追いかけてくる」という感覚がありました。「神さまが私を見つめ、私を一定の方向へ導いている」とも感じました。
その帰り道、自己中心な私が嫌でたまらなくなりました。
「変わりたい。神さま、私を変えてください。私は弱い存在です。私の力では到底、自分を変えることはできません。どうか、私を変えてください。」
涙が出てきました。泣きながら、この祈りを祈りました。
その日、私はイエス・キリストを信じました。
クリスチャンになる決心をしたのです。
どんなときでも、神さまに祈ることができます。しんどいときにも、辛いときでも、迷うときも、葛藤するときも、傷つけられたときも、腹がたったときも、私のすべての感情を伝えることができる、神さまがいます。いつでも、この神さまに助けを求めることができます。
私がどうやって生きればいいのか、神さまが教えてくれます。慰めがほしいとき、神さまが私を慰めてくれます。神さまは、私のすべての感情を受けとめてくれます。
神さまという大きな存在が今、私の心の中にいるのです。
► | イエス・キリストとの個人的な関係を持つには |
► | 質問や意見があります |
こちらの動画・記事もご覧ください
『神を知っていますか?』
『神は祈りに答えてくれる?』