日本でも、ムスリムの方々をよく目にするようになりました。留学生やビジネス世界でも、ムスリムの方に出会う機会が多くあります。空港や主要駅にも祈祷室が設けられ、ムスリムの方が食べられる「ハラル認定」を取得する飲食店も出てきました。
特に留学生が多い大学の中では、ハラル料理を提供する学生食堂もあります。学内にムスリムの留学生用の祈祷室も設けられています。ムスリムの「宣教師」が派遣され、留学生の信仰面を助ける場面も、大学内でよく目にします。
とは言っても、日本に住む私たちにとっては、イスラム教はまだ、馴染みが薄いのも事実です。皆さんは『コーラン』の中に、イエスが出てくるのはご存じでしょうか。『コーラン』の中では、イエスは「預言者イーサー」という名前で登場します。
本稿では、ムスリムの皆さんがイエスに関してもつ、疑問にお答えする内容です。ムスリムの読者の皆さんに配慮と尊敬の心をもって、誠実にお答えするように心がけています。どの宗教、信仰にも批判や偏見を捨て、互いに尊重する心をもって、皆さんが冷静に検討できるように、その論拠をお伝えします。
本稿では、ムスリムの皆さんがイエスに関して持つ、以下の6つの質問にお答えします。
1.聖書は、著者のオリジナルから変更されたことはなかったのか?
2.神の啓示はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と更新されたのか?
イスラム教には4つの啓典があります。啓典のうちの一つが『コーラン』です。その他、3つの啓典に、モーセの律法『タウラート』、ダビデ王による『ザブール(詩篇)』、そしてイエスの啓示である『インジール(新約聖書の福音書)』があります。『コーラン』全体で、聖書が「真理を照らす光」だと評価し、尊重しています。
ただイスラム教では、聖書著者が執筆した時点の原稿では、神の啓示を正しく記録していたと考えています。しかし後世の人々が故意に、聖書に変更を加えたと考えます。現在、私たちが手にする聖書は、神の啓示が歪められたものだとします。そのため、イスラム圏の国の中には、聖書を禁書とする国もあります。
では聖書は本当に後代の人によって、書き換えられたのでしょうか。聖書著者が書いた聖書本文と、現在の『聖書』とは違うのでしょうか。
写本を辿る
現在の聖書と、古代の聖書写本を比べると、聖書の真実性がわかります。
新約聖書全巻の写本の中で最古のものは、西暦300年に作成されたものです。現在、ロンドン博物館とバチカンに保管されています。今日の聖書と、西暦300年の聖書写本を比較すると、まったく同じ内容であることがわかります。
一部だけが現存する写本の断片を含めると、現存する新約聖書の古代写本の数は24,970点になります。文献学者たちが、断片を含めた全写本を比較研究しました。その結果、今日私たちが手にする新約聖書は少なくとも99.5%が、著者のオリジナル原稿と同じものであることがわかりました。
残りの0.5%の違いとは、写本間の文字の綴り方の違いでした。これらの違いは、内容全体に影響を与えるものではありません。新約聖書が、聖書著者のオリジナル原稿を正確に継承されていることを、歴史学、書誌学が証明しています。
では、旧約聖書はどうでしょうか。20世紀の考古学上最大の発見が『死海文書』です。『死海文書』とは、死海沿岸の北西部にある天然の洞窟の中から、素焼きの壺に入れられて発見された大量の写本群のことです。死海沿岸の乾燥した気候が幸いして、2000年前のパピルス文書が完全な形で発見されました。
『死海文書』は前1世紀に、修道生活をしていたユダヤ教の一派クムラン教団の信者が残した写本群です。旧約聖書の各書、クムラン教団の宗教生活などが書かれた写本群が、前1世紀から後1世紀にかけて書き残されました。
研究者は『死海文書』の中の旧約聖書各書を、現在私たちが手にする聖書と比較しました。両者はほぼ100%同じだったのです。写本作業がいかに精密に、細心の注意をもって、専門的に行われてきたのかがわかります。
写本の比較によって、新旧約聖書は最初に聖書著者が書いたものが、忠実に継承されてきたことがわかります。聖書が年代がくだるごとに変更が加えられたという説は、歴史学的に正確ではありません。
四福音書
それならば、イエスの人生を描いた新約聖書の最初の4書、四福音書はどうでしょうか。イエスの伝記がなぜ4つもあるのでしょうか。4つの福音書は互いに異なる文献なのでしょうか。
確かに新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書があります。逆に福音書が4つ存在することで、聖書が改竄されたものではない証拠にもなるのです。
イエスの人生について、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の証人がいます。イエスの教えと行動を、4人の証人がそれぞれ別の角度から証言しているのです。
現在の裁判でも、目撃証人による証言が重要視されます。もし証人が複数いて、証言が一致するならば、事実がさらに明確になります。また証言をバックアップする証拠が存在すれば、さらに強い説得力となります。聖書でもこう書かれています。「二人または三人の証人の証言によって、すべてのことは立証されなければなりません。」※1
日中、交通量が多い交差点で、交通事故が起きました。この事故を目撃した証人が仮に4人いたとします。4人が事故の目撃証人として、法廷に呼ばれます。4人それぞれが、自分が見た事実を、自分の見た角度から、自分の言葉で証言するはずです。
でも仮に、4人それぞれの証言が一字一句まったく同じ説明だったら、どうでしょう。逆に口裏合わせをしたのではと疑われます。
福音書も同じです。イエスの直接の目撃証人がそれぞれ、別の角度、別の視点からイエスについて説明を残しました。観点の違い、切り口の違い、論点の違いで多少の違いがあっても、イエスの行動や教え自体がまったく湾曲されることはないのです。むしろ複数の証人の証言により、事実が立体的に見えてきます。
イエスについての証人は、福音書を記した4人だけではありません。実に多くの目撃証人がいました。新約聖書の残りの部分を書いたヤコブ、パウロ、ユダ、ペテロ…もイエスの証人たちの一員です。彼らも自らの目で見たことを書き残したのです。
ヨハネの福音書の著者ヨハネはこう語っています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて……私たちは見たので証して、あなたがたに伝えます。」※2
聖書翻訳
聖書の翻訳についてはどうでしょうか。聖書は各言語に翻訳されています。2020年10月の時点で、聖書全巻は704言語に翻訳されています。翻訳の過程で、聖書の内容が歪められる可能性はなかったのでしょうか。
聖書の原典は、ヘブル語とギリシヤ語で書かれました。以前は、一部英語に翻訳された聖書を、日本語に重訳されたこともありました。しかし最近出版されている聖書は、原典のヘブル語、ギリシヤ語の公認本文から翻訳されています。
公的な聖書翻訳では、何人もの神学者、聖書学者が委員会を形成して、注意深く行われます。各書の翻訳は1人の学者が担当し、できるだけ原典に忠実に翻訳します。できあがった下訳原稿を、委員会で一字一句、校閲と編集を行います。繰り返しチェックし、複数の学者で推敲した翻訳文を、翻訳聖書として出版しています。
中には、現代人にわかりやすく言い換えた聖書も存在します。意訳や私訳の聖書は、翻訳意図や翻訳の方針も明記して、公的な翻訳聖書と区別されて、出版されています。
聖書の内容は、決して難解なものではありません。中には、箴言や雅歌、詩篇のような、詩的な表現の書もあります。しかし聖書のメッセージは、私たちの日常の生活を沿った非常にシンプルな内容です。聖書が正直で簡潔な記述であることも、聖書が信頼できる理由の一つです。
もともとヘブル語やギリシヤ語で書かれた聖書が、なぜ704言語にも翻訳されているのでしょうか。それは神が、全世界の人々に救いのメッセージを伝えたいと願っているからです。
すべての人が、滅びへと向かって進んでいます。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができ」ないでいます※3。聖書は、私たちの罪がゆるされ、永遠に続く神との親しい関係を築くための方法を教えています。これこそが、私たちの人生を変えるメッセージです。
変わることがない聖書
現在、私たちが手にする聖書は、聖書著者が書いたオリジナルから変わっていないことを見てきました。また翻訳の過程でも、ミスがないように最善の注意が払われていることも、紹介しました。
なぜ、聖書がこれほど精密にそのメッセージが保存されるように努力されてきたのでしょうか。それは、聖書自身が聖書の内容を変えてはいけないと厳命しているからです。
「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」※4
聖書の約束は実現します。イエスはこう語ります。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることはありません。」※5
聖書のすべてが、神の啓示によってもたらされたものです。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」※6
「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」※7 神のことばが実現しないことはありません。神の約束である、聖書が変わらないように、神ご自身が細心の注意を払われたのです。
聖書は、変更されたことはありません。世代が変わるごとに、聖書が書き換えられたというのは、間違えです。
聖書の真実性に関しては、こちらの『聖書はなぜ信頼できるのか』をご覧ください。
イスラム教は7世紀、イエスが生きた1世紀から、600年後に始まりました。『コーラン』も、聖書の存在を認め、聖書を事実として受け入れています。ただ、聖書は世代から世代へと継承される過程で、人間の手で変更されたと、イスラム教では教えます。
神のことばは最初、旧約聖書に啓示されました。そこでユダヤ教が誕生しました。しかし歴史とともに、啓示に人の手が加わったために、神は新約聖書で再度、神のことばを啓示しました。そこで誕生したのが、キリスト教です。
しかし新約聖書も時代がくだるに従い、人の手が加わり、神の啓示が歪められたと、イスラム教では考えられています。そのため7世紀、神はムハンマドに啓示を与えました。イスラム教が誕生したのです。
神の啓示はユダヤ教に始まり、キリスト教、イスラム教へと更新したと、『コーラン』では教えます。神の啓示は本当に更新されたのでしょうか。新しい啓示が現れ、以前の啓示が無効にされたのでしょうか。ここでは、天地創造から始まる神と人との関わりの歴史を振り返ります。
最初の啓示
天地創造の時代、神は直接アダムとエバに語り掛けました。神が、彼らの声を聞き、彼らの必要をすべて満たしました。
神は歴史の中で「宗教」をつくることには、関心を示しませんでした。むしろ神は、人との「関係」を願い、ご自分を啓示しました。人との「関係」を築くことが、神が私たちを創造した究極の目的だったのです。
しかし悪魔は蛇となり、アダムとエバの前に現れ、彼らを誘惑しました。アダムとエバは悪魔の誘惑に負け、神のことばに従いませんでした。アダムとエバは、園の中心にある善悪の知識の実を、悪魔に言われるまま、食べてしまうのです。結果、神と人との「関係」が完全に崩壊してしまいます。
神は人を誘惑した裁きとして、悪魔にこう語ります。「おまえは、このようなことをしたので、どんな家畜よりも、どんな野の生き物よりものろわれる。おまえは腹這いで動き回り、一生、ちりを食べることになる。わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」※8
女の子孫
神は「女の子孫」が悪魔の敵となると語りました。「女の子孫」とは「彼」とあるように、1人の人です。聖書全体の流れを見ると、メシアであるイエスのことです。悪魔がその「子孫」イエスのかかとに噛みつき、部分的に勝利します。しかしその「子孫」イエスが最後の一撃を与え、悪魔の頭を完全に砕くであろうと預言しています。
悪魔は「女の子孫」イエスの足と手を十字架上に釘付けにして、イエスに一撃を加えました。しかしイエスの十字架の死と復活は、悪魔への勝利の決定打だったのです。
イエスは十字架上で全人類の罪を身代わりに背負い、信じるすべての人に罪のゆるしを与えました。イエスの十字架の死と復活は、私たちが神との「関係」を回復させる道を開く結果となったのです。
十字架の預言
預言者イザヤは、イエスの十字架についてこのように預言しています。
「彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々から除け者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめされたのだと。」
「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。」※9
預言者イザヤは明らかに、イエスについて語っているのです。預言者イザヤは、イエスが生まれる700年以上も前にこの預言を語ったのです。
神は創造の最初から、メシアであるイエスがこの世界に来て、死ぬことを預言していました。イザヤの預言も、イエスの十字架の受難を明確に預言しています。
もし神が、イエスの十字架と復活の計画を変えていたら、どうなっていたことでしょう。創造の初めから預言者イザヤに至るまで、神はイエスに関して詳細な約束を語っていました。それにも関わらず、神が心変わりして、イエスの十字架と復活がなかったら、神は嘘つきになります。
人が救われる道もなくなりました。神は約束を守る神です。約束が履行されなければ「信頼関係」は破綻します。約束や基準が変えるなら、神を神とは呼べなくなります。神は約束を守る真実な神です。聖書のことばが、無効になることはありません。
実は『コーラン』にも、イエスの生涯の記事があります。『コーラン』では、イエスは「預言者イーサー」として登場します。『コーラン』でも「預言者イーサー」は処女懐胎によって、生まれました。「預言者イーサー」も生涯、数多くの奇跡を起こしました。
でも『コーラン』では「イーサー」ことイエスは、預言者だと紹介しています。「イーサー」は人に過ぎません。「イーサー」は、神のことばである『インジール(新約聖書)』を伝えるために選ばれた預言者でした。
しかし新約聖書には、イエスはご自分を「神の子」だと語ったと書いてあります。神は唯一なのに、なぜ「神の子」が存在するのでしょうか。イスラム教では、イエスのように自分を「神の子」だと語ることは、神への冒瀆です。イエスが「神の子」だと語ったことは、神への冒瀆なのでしょうか。この疑問について、一緒に考えてみましょう。
神の子
そもそも、神は「霊」的な存在です。神には、肉体がありません。イエスは、霊的な意味で「神の子」です。神がマリアと肉体関係をもって「神の子」が生まれたわけではないのです。
イエスが「神の子」であるというのは、イエスが神から来たということです。御使いがマリアに現れたとき、御使いは「その子は大いなる者となり、いと高き神の子と呼ばれます」と語りました※10。
預言者イザヤはこう預言していました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」※11
イエスは神である方ですが、母マリアを通して「人」のからだを持ちました。処女であったマリアは、通常の性的行為を経ずに、聖霊によって妊娠しました。子なる神が、超自然的にマリアの胎に宿り、「人」として生まれました。その方が、イエスなのです。
罪なき神の子
『コーラン』でも、イエスが処女であるマルヤム(マリア)から生まれたことを書いています。それではなぜ神は、イエスを処女マリアから生まれさせたのでしょうか。
最初の人、アダムとエバが罪に陥ったことで、彼らの罪の性質が世代から世代へと、その子孫に受け継がれていきました。私たちアダムの子孫のすべてが罪人です。
「神が願うことよりも、自分がやりたいようにしたい」と罪になびくのが人間です。ダビデ王はこう告白しました。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。」※12
私たちは皆、罪ある者として生まれました。私たちは罪深い人間として生きており、だれもが救い主を必要としているのです。
しかしイエスは、男と女の営みから生まれた存在ではありません。イエスは、母マリアのお腹に聖霊によって宿ったので、罪の性質は受け継ぎませんでした。
ペテロはイザヤ書を引用して、こう語っています。「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。」※13
神が人となったイエスは、この地上での生涯の中でも、一度も罪を犯すことはありませんでした。それは全人類の罪を、イエスが身代わりに背負うためだったのです。
神はアブラハムには、天からの声として語りかけました。モーセには、燃える柴の中から呼びかけました。そして今から約2000年前、神が「人」となって、私たちにその姿を現したのが、神の子イエスなのです。
『コーラン』では、「預言者イーサー」はアラーへの服従のメッセージを説いたと語っています。また「預言者イーサー」は、多くの奇跡も行いました。しかし『コーラン』は、イエスが十字架で死んだ事実を否定しています。
他の人物が十字架についたのを、当時のユダヤ人が「イーサー」が殺されたと誤解したと、『コーラン』には書かれています。『イーサー』自身は死ぬことなく、アラーが彼を天に引き上げたとあります。
新約聖書の四福音書には、イエスの十字架の場面が詳細に記録しています。はたして、イエスの十字架は、歴史上、本当に起こった出来事なのでしょうか。なぜイエスは十字架で死んだのでしょうか。なぜイエスが十字架で死ななければならなかったのか、旧約聖書からその意味を見ていきましょう。
羊の犠牲
神は、イスラエルの父祖、アブラハムに1つの試練を与えました。神は1人息子のイサクを祭壇にささげるように、アブラハムに命じました。
アブラハムは、息子イサクを伴って山を登ります。その途中、イサクは「神への供え物はどこにあるのですか」と質問します。アブラハムは「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と答えます。
アブラハムがイサクを縛って、祭壇の上で殺そうとしたとき、神がアブラハムを制止します。アブラハムが目をあげると、やぶに角をひっかけた雄羊が見えます。アブラハムはその雄羊をとらえて、イサクの代わりに神にささげるのです。
ここに聖書全体に一貫して流れるメッセージがあります。神には必ず、備えがあります。神は1匹の雄羊を用意して、アブラハムの息子イサクを救ったのです※14。
過越の子羊
続く出エジプト記では、再び羊の重要性を見ることになります。出エジプト記では、神がエジプトで奴隷であったイスラエルに、その夜、エジプト人の長子を打つことを警告します。
神のことばを信じて、子羊の血を家の門柱に塗るならば、死の使いはその家を通り過ぎます。門柱の血により、その家の長男は死から救われます。子羊の血によって、神を信じる民が救われたのです。※15
アザゼルのヤギ
次のレビ記では、ヤギの犠牲が出てきます。祭司は毎年、雄ヤギを一匹、町の外の荒野に解き放ちます。荒野に放たれたヤギはゴミ収集車のように、人々のすべての罪を背負って、野をさまようのです。毎年、一匹のヤギによって、民全体が救われたのです※16。
神の子羊
時代はくだり、神であるイエスが人となって、この地上に来ました。バプテスマのヨハネが現れ、群衆に向かって、こう語ります。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」※17 世の罪を取り除く子羊であるイエスが、全世界を救うのです。
今から約2000年前、神の子羊であるイエスが、あなたのために十字架にかけられ、いのちをささげました。
聖書はこう語っています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」※18
神の小羊であるイエスは、全人類の罪をあがなうためのいけにえとなったのです。イエスの十字架に関しては『なぜイエスは死んだのか』の記事をご覧ください。
「いや、イエスは十字架につられたのではない。イエスは殺されなかった。」「神が死ぬなんてあり得ない。」皆さんはこう考えるかもしれません。
それでは、神が死ぬようなことがあるのでしょうか。これは良い質問です。
一つ例をあげて説明します。ここに花瓶があるとします。花瓶にはまだ水も入っていなければ、花もいけていません。ただ空気が花瓶の中にあるだけです。
では花瓶の外側の空気と、花瓶の内側の空気に、何か違いがあるでしょうか。花瓶の中の空気は花瓶の形をしていますが、空気自体の成分は変わりません。
今、この花瓶を壁にぶつけて壊します。花瓶の中の空気はどうなるのでしょう。花瓶自体は割れて、破片は粉々に飛び散ります。花瓶の内側の空気は、花瓶の形は失います。しかし空気自体は、何の化学変化も起こりません。
イエスが十字架で死だとき、肉体は死にました。しかしイエスの霊、神の霊は死んでいません。神であるイエスはこの地上では、人のかたちをとりました。
イエスは人になりましたが、「人」だけの存在ではなかったのです。イエスの地上の生涯は、100% 人間になりましたが、100% 神でもあったのです。
イエスは十字架上で、私たちの罪を背負って死にました。それは、神と人の間に立ちはだかる障壁を取り除くためでした。イエスの死によって、私たちは神との平和をもつことができるのです。
神の子羊イエスの十字架の苦しみによって、神の義は完全に全うされました。イエスが自ら、いのちを捨てたことによって、神の愛は完全に現されたのです。
イエスの死は、確かに不公平であり、あり得ない出来事です。イエスが自分のいのちをもって、全人類の身代わりになるとは、考えづらいことです。しかし罪のないイエスの身代わりの死が、全人類の罪に対する神の解決策だったのです。
本来であれば、私たちが自ら、死をもって償うべき負債を、イエスが代わりに引き受けてくれました。それは、私たちが死ないためです。イエスは、私たちが神の愛を知り、神と和解して、永遠のいのちをもつことを願っています。
裁判官であり隣人でもある
イエスの十字架を理解するために、もう一つ例をあげましょう。1980年代初頭のことです。東京地方裁判所に、石丸邦彦さんという裁判官がいました。石丸判事は、裁判で公正な判断を下す立場ですが、いつも被害者に寄り添いつつ、被告人の更生と社会復帰を願っていました。
そんな石丸判事、1972年日本中を震撼させた「あさま山荘事件」の被告人の一人、Yさんの裁判を担当しました。連合赤軍によって、17人が殺された事件の裁判でした。
検察は被告人のYさんに死刑を求刑しました。しかし石丸裁判長の下した判決は無期懲役でした。
「あなたの生命を法の名において奪うことはしない。…被告人は生き続けて、その全存在で罪を償ってほしい。」石丸裁判長は判決文の中で、こう Y被告に語りかけました。
その判決から10年。1992年に裁判官を定年退職した石丸さん。彼は刑務所のYさんに手紙と聖書を送りました。「必ずやこの社会に復帰できますことを信じて、祈っております。」それから毎年、Yさんの誕生日、クリスマスと手紙を出しました。
「あなたのために祈っています。」
「君と社会で会えると信じて、祈っています。」
「私の愛用の時計をプレゼントします。社会復帰したときに使ってほしい。」
「イエスはあなたを救うため、神のひとり子でありながら、人となられ、十字架の苦難の道を歩まれました。これが神の愛です。この愛の神イエスを信じてください。」
石丸判事は生涯、イエスの愛を手紙で伝え続けました。手紙を受け取る中で、受刑者の Yさんの心も次第に変えられていきました。
社会のせいにし、人のせいにしていた罪を、自分の罪として向き合うように、Yさんは変えられました。悔い改める心が生まれました。判決文に書かれたとおり「被告人は生き続けて、全生涯で罪を償ってほしい。」その意味がわかるようになったそうです※19。
神であるイエスは、この世界の審判者です。ちょうど石丸裁判官が退職後、被告人だった Yさんに寄り添い、愛を示したように、イエスは罪の刑罰に向かう全人類をあわれみました。イエスの場合は、全人類の罪をイエス自身が背負い、身代わりに十字架刑を引き受けたのです。
旧約聖書の預言者たちは、メシア(救い主)がこの地上に来ることを預言していました。そして、メシアが全人類の罪のための代償の死を遂げることも、事前に預言されていました。イエスこそが、罪の問題を解決し、人々に永遠のいのちを与える、唯一の希望なのです。
『コーラン』では、イエスのことを預言者だと語っています。しかし新約聖書は、イエスは「神」であることを論証しています。
私のムスリムの友人たちの生活は、とても敬虔です。心からアラーを慕い求める方がたくさんいます。その生き方は誠実で、とても尊敬できます。
『コーラン』を丁寧に学び、生活に活かそうと努めています。どこに行っても、何をしていても、一日5回、ひざまずいて祈ります。社会福祉にも熱心です。毎年の1か月、断食月「ラマダン」を忠実に守っています。メッカへの巡礼も楽しみにしています。心からアラーを求め、アラーに近づきたいと願って生きています。
そんな敬虔なムスリムの方の中で最近、夢で「白い服を着た方」「預言者イーサー」を見たという人が増えています。この「イーサー」イエスとは、単なる預言者なのでしょうか。
神のご性質
聖書が語るイエスとは、どのような存在なのでしょうか。聖書が語る神は、ただひとりです。このお方は、どのようなご性質をもつ方なのでしょうか。以下は、聖書が語る唯一の神のご性質の一部です。
・神は永遠の方。過去、現在、未来も変わりません。
・神は聖なる方。欠けがなく、完全です。
・神は真実な方。神のことばは必ず実現します。
・神は遍在する方。神は世界中どこにでも、どの時代にも存在します。
・神は力に満ちた方。全能で、制限がありません。
・神は全知である方。すべてをご存じです。
・神は創造主。神が造らなかったものは一つもありません。
・神は唯一の存在です。
上記のリストは、神のご性質のほんの一部に過ぎません。聖書が、これらの神のご性質について明らかにしています。
イエスも神なのか?
神は唯一であるはずです。ならば、どうしてイエスもまた、神であるのでしょうか。聖書は、神の御子イエスも神とまったく同じ性質をもつ神であると語っています。
例えば、神のご性質のひとつ「永遠」について考えてみましょう。聖書は、イエスに関して次のように語っています。
「この方(イエス)は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によろずにできたものは一つもなかった。」※20
また聖書にはこうも書かれています。「御子(イエス)は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」※21
三位一体の神
聖書は確かに、神はおひとりですが、三つの人格(位格)をもつことを語っています。三つの人格とは、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、神の霊である聖霊です。この三つの人格が親しい関係の中で、ひとつの思い、ひとつの方向性によって、絶妙なチームワークの中で歩んでいます。これを「三位一体」と言います。
「三位一体」の神を完全に、言葉で説明することは不可能です。しかし読者の皆さんにどう説明しようかと考えて、通勤電車に乗っていたとき、一つの例を思いつきました。不完全ながら、読者の皆さんの理解の助けになればと願っています。
私は東京在住です。通勤でJR新宿駅を使います。新宿駅1番線は「湘南新宿ライン」の電車が発着します。同じ線路で横浜方面に向かいますが、3種類の電車が走ります。
①群馬県高崎を発車して、平塚・小田原方面に行く東海道線の電車。
②栃木県宇都宮から、鎌倉・逗子に向かう横須賀線の電車。
③新宿始発で海老名へ至る相模鉄道・埼京線の電車。
3種類の電車が一つの線路を共有して、同じ横浜方面に向かいます。3種類の電車が「湘南新宿ライン」を形成しています。運行乗務員や総合司令所、保線管理などの鉄道会社の社員さん同士の連携と努力は大きなものでしょう。乗客を安全に定刻に、目的地に届けるという同じ目的で、3種類の電車が同じ線路を共有するのです。
同じように、父なる神も、御子イエスも、聖霊も、個別の人格でありながら、親しい関係の中で「ひとつ」なのです。「三位一体」の神は、この宇宙の制約にとらわれずに存在するお方です。人間とは比べられないほど、無限で複雑な存在です。
あえて数学で表現するのならば 1+1+1=3 ではなく、1x1x1=1 になります。神は3つの人格を持ちながら、おひとりであるお方です。
イエスを知るとは
預言者イザヤはこう語っています。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」※22 「インマヌエル」とは「神がともにいる」という意味です。
イエスを知ることは、「三位一体」の神を知ることです。イエスを見るとは、「三位一体」の神を見ることです。イエスを信じることは、「三位一体」の神を信じることになるのです。
イエスが本当に神なのでしょうか。さらに詳しく知りたい方は『イエスは神か 偽善者か?』の記事をご覧ください。
関係を大切にする神
本稿を終えるにあたり、もう一つ、神について知っていただきたいことがあります。それは、神があなたを大切に思い、あなたに特別な関心をもっているということです。
イエスはこう語ります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」※23
聖書を読む限り、神は何かの「宗教」を創設しようと願ったことは、一度もありませんでした。むしろ神は、あなたを大切に思い、あなたと親しい関係を築きたいと願っています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」※24
確かに、多くの宗教的な戒律を守ることは尊いことです。しかし私たち人間には、すべての戒律を完璧に守り切ることはできません。ときには戒律自体が、重荷に感じることもあります。
私たちが守れなかった戒律の埋め合わせを、イエスがすでに十字架の上で成し遂げてくれました。大切なことは、その招きに答えて、イエスのもとに行くことです。
イエスとともに人生を歩くのです。イエスと親しく交わり、イエスの歩み方を模範として、無理のないペースで歩くことです。神であるイエスは、私たちとの「関係」を求めています。
イエスの愛を経験した私たちは自然と、神を喜ばせたいと願うようになります。新しい動機が心に芽生えます。恐れからではなく、神を知る喜びからイエスに従いたいと願うようになります。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」※25
あなたもこのイエスを神として、信じてみませんか。イエスの愛を体験してみませんか。神があなたに切に願っているように、神との「関係」を今、始めてください。
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脚注: (1) 2コリント13:1(2) 1ヨハネ1:1 (3) ローマ3:23 (4) マタイ5:18(5) マタイ24:35 (6) 2テモテ3:16 (7) イザヤ40:8 (8) 創世記3:14,15 (9) イザヤ53:1-6 (10) ルカ1:32 (11) イザヤ9:6 (12) 詩篇51:5 (13) 1ペテロ2:22 (14) 創世記22:1-18 (15) 出エジプト12:1-51 (16) レビ16:6-10 (17) ヨハネ1:29 (18) ローマ5:8
(19) 『あさま山荘事件 “獄中”50年 無期懲役囚を揺さぶった裁判長の言葉』NHKニュース, 2022年2月24日 NHK クローズアップ現在 取材ノート2022/2/24
(20) ヨハネ1:2,3 (21) コロサイ1:15,16 (22) イザヤ7:14 (23) ヨハネ15:9-11 (24) マタイ11:28-30 (25) ローマ8:38,39