皆さんにとって、理想の「神」とはどのような存在なのでしょうか。神には卓越した力があり、いつも私たちの味方になってくれる存在でしょうか。神は必ず願い事をかなえてくれる存在でしょうか。悪を罰し、善に報いる存在でしょうか。よくわからないけど、理解できない部分が幻想的で、神である理由だと考える人もいるでしょう。
本稿では聖書が語る神の特徴をご紹介します。あなたの理想とする神の存在に合っているでしょうか。まず聖書が語る神とは、全宇宙、全世界を造った唯一の存在です。この方には人格があり、人とコミュニケーションを取ろうとしている存在だと、聖書は紹介しています。この前提で、以下の神の特徴をご覧ください。
この数世紀、科学技術が飛躍的な進歩を遂げてきました。医学の発展で、人類は祖先よりも長生きをするようになりました。情報技術の発達で、世界中の人々と敏速なコミュニケーションを取れるようになりました。ネット上では、瞬時に有益な情報を得ることもできます。
科学技術が進歩した反面、社会は後退してしまった部分もあります。凶悪事件や離婚率の増加。十代の自殺が増加していることも目の当たりにしています。毎日、戦争や紛争から多くの尊い命が失われています。慢性的な飢餓で苦しむ人も何億人といます。
人類が抱える問題は、数え上げればきりがありません。ある人は自分自身が「神」だと言います。「自分の人生は自分で決めたい」と考えます。
もし人類が「神」であるならば、私たちは「神」の役割を十分に果たしているでしょうか。むしろ、人よりも偉大な神の存在がいた方が良いと思いませんか。自分の力で到底、到達できないところへと私たちを導いてくれる存在がいた方が良いと思いませんか。
全知全能の神
聖書が語る神は、まさに人よりもはるかに偉大な存在です。聖書の神は唯一の方で、全宇宙の創造主です。限界がなく、全知全能です。神は常に存在し、万物を支える存在です。聖書は次のように語っています。
「このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。このわたしが手で天を延べ広げ、その万象に命じたのだ。」※1
「わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」※2
「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。」※3
現代では、神を万物を統治する一種の「力」(フォース)のような存在だと認識する人が増えています。神は確かに、すべての人やあらゆる生き物の生命を維持し、支えている方です。
でも神は、単なる漠然とした「力」ではありません。神は「力」以上の方です。神には人格があります。もし神に人格がなく、私たちが個人的に神を知ることも、交わることもできない遠い存在であったのなら、その神のどこが特別なのでしょうか。
人格をもつ方
聖書では、神がまるで家族や親友のような親しい関わりが持てる存在として描かれています。私たちは神に語りかけることができ、悩みを相談し、神からの導きを受けることができます。神は、私たちの人生をともに歩んでくださる方です。
神は確かに壮大で、人を超越した存在です。でも同時に聖書の神を、私たちは個人的に知ることができます。私たちは神とコミュニケーションを持つことができるのです。神ご自身が、あなたに関心を持ち、あなたと親しく交わりたいと願っているのです。
神を、私たちは目で見ることはできません。しかし私たちは祈りを通して、神に語りかけることができます。神に疑問をぶつけることもできます。
神の語りかけを聞くことができます
そして私たちは、神のことばに耳を傾けることもできます。神は、私たちの祈りに答える方です。私たちの生涯に、神は導きを与える存在です。
聖書は「神からのラブレター」です。神は聖書を通して、私たちに語りかけ、人生に導きを与えるのです。
私たちが家族と持つような親しい関係を、神と持つことができるのです。事実、神は神を信じる者を「子ども」「花嫁」「友」と呼びます。
親友のような存在
神は人格を持たない、単なる「力」のような存在ではありません。神は優しく、あわれみ深く、豊かにゆるす方であり、ともに喜び、ともに悲しみ、ときに怒りも表す、感情をもつ存在です。
神は知性に満ち、個性と英知に富んだ方です。私たちは単に、神に関する事実を知的に知るだけではありません。神はまるで親友のように、親しい関係をもつ中で、神の人格に触れることができるのです。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなた…を知ることです。」※4
ある人たちは、神が人を創造はしたけれども、人をそのまま放置したと考えます。神は遠く離れたところから、何もせず、手をこまねいて、私たちを見ているだけだと考えます。
しかし神は、この世界と関わりを持ち続けています。特に神は、地上で起こるあらゆる出来事に関心を持っています。人が直面する困難、責任、問題はどうでしょうか。神は、あらゆる事柄を理解しています。だれの人生にも苦しみがあります。神はその苦しみを理解し、その試練を神がともに乗り越えてくれます。
人となって来たキリスト
イエス・キリストは今から約2000年前に、神が人となってこの地上に来た方です。人となり、人の性質を100% 受け入れた神です。イエスは、人の生涯をよくご存じのお方です。
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」※5 ここで「ことば」と表現されたのが、イエス・キリストです。
神の御子イエス・キリストは「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」※6、
「見えない神のかたちであり」※7、「人としての姿をもって現れ」※8、「力ある神、永遠の父」※9 だと、聖書は語っています。
この方の内に「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」※10。そして 「天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも……御子にあって造られた」※11 のです。イエスはご自分に関して次のように語っています。
「わたしを見た人は、父を見たのです。」※12
「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。」※13
「わたしと父とは一つです。」※14
人生の苦楽を体験した神
イエスは100% 神であり、100% 人でもありました。空腹を感じることもありました。眠気を感じることもありました。涙を流し、食事もしました。イエスは、私たちが経験するあらゆる困難を耐え忍びました。
聖書はこう語ります。イエスは「私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」※15
聖書の神は、人の痛み、苦しみ、悪に対して無関心な方ではありません。私たちが苦しみを耐え忍ぶように、イエスもその生涯で、人が受けるあらゆる苦しみを耐え忍んだのです。
事実、イエスはこの地上で、とても謙遜な生活を過ごしました。イエスは貧しい家庭に生まれ、肉体的な魅力も持たず、偏見と憎しみの対象でした。自分の家族や友人たちからも理解されず、不当に処刑されたのです。人となった神であるイエスは、私たちのどのような苦しみを理解し、受けとめ、共感することができるのです。
イエスの生涯に関しては映画『ジーザス』をご覧ください。
私たちは人から愛され、受け入れられることを期待しています。単にうわべの言葉だけではなく、心からの行動によって気遣いを示してほしいと願うものです。
神に対しても、同じように期待する私たちがいます。つまり、神が愛なら、神は私たちへの気遣いの行動をとってほしいと思いませんか。
聖書の神は確かに、私たちのことを愛しています。神ご自身が「神は愛です」※16 と宣言しています。
しかしことばだけでは、愛は伝わりません。ここが聖書の神のユニークで、偉大な部分です。神はいかに、人に愛しているのかを示すため、特別なことを行いました。
神の愛が示された
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣わされました。」※17
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」※18
聖書で「神は光であり、神には闇が全くない」※19と語っています。神は完全で、絶対的なきよさを持つ方です。神のこの性質のゆえに、神は私たちときよく純粋な関係を持つことを望んでいます。
だから神はご自分の御子イエスを遣わし、私たちが神の御前で聖い生活を送る模範を示したのです。イエスは道徳的に完全な、聖い生涯を送りました。
身代わりの死
イエスはまた、私たちが語ること、行うこと、頭に思いうかべことの中の間違った部分(これを「罪」と呼びます)の代償として、打ちたたかれ、苦しめられ、十字架にかけられました。イエスの十字架は、私たちの身代わりの死であり、本来私たちが受けるべき罪の刑罰を、代わりに引き受けたのです。
「神は、罪を知らない方(イエス)を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」※20
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼(イエス)に負わせた。」※21
神はご自分の御子イエスを、私たちの罪の身代わりに死なせるほど、私たちを愛しています。神は私たちの必要は、どんなことでも与えたいと願っています。
私たちの罪の問題をイエスの十字架で解決したのは、まさに神の抑えきれないほどの愛のゆえです。イエスの十字架によって今や、私たちの罪は完全にゆるされ、神と妨げとなる罪の障壁が取り除かれ、神との親しい関係を持つ道が開かれたのです。
私たちの側でするべき決断は、この聖書が語るイエスの十字架と復活を信じることです。
この世に存在する悪い出来事や苦しみは、善なる全能の神の存在を否定するものでしょうか。そんなことはありません。
完全な神は、ときにすばらしい計画の一部として、悪い出来事が起こることも許すことがあるのです。神は常に、今何が起こっているのかを正確に把握しています。神の壮大な計画の一部として、一時的に悲しみを覚える出来事が起こることを許すこともあるのです。
聖書の神は、すべてのことを支配下に置いています。神の許しなしには、この地上では何一つ起こることはありません。神はすべての領域で完全な主権者です。
「主が命じられたのでなければ、だれが語って、このようなことが起きたのか。」※22
「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。」※23
「主のはかられることはとこしえに立ち みこころの計画は代々に続く。」※24
「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」※25
ただ神はすべての出来事を喜んでいるというわけではないのです。例えば、イエスは弟子たちに祈りを教える際に、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」※26 と祈るように教えました。
神は主権者だが…
天ではいつも、神のみこころが行われています。しかしこの地上では、必ずしもそうではないのです。神は確かに、あらゆるものに主権をもっています。しかし地上で起こるすべての出来事を、喜んでいるわけではないのです。
何らかの理由で、神が喜ばれない出来事も起こるのです。犯罪や不条理な出来事が起こることを、神は許容しているに過ぎません。人には自由意志があるからです。
※詳しくは 『悲劇の中にも神はいるのか』 の記事をご覧ください。
しかし神はご自分の計画も持っています。そして「その心の御思いを行って成し遂げるまで」※27 休むことはありません。
神の計画
神の計画とは何でしょうか。神の究極的な目的とは、私たちが将来、天国で神とともに過ごすようになることです。この次に来る新しい世界について、神はこう語っています。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。……見よ、わたしはすべてを新しくする。」※28
※天国については『天国は本当にあるのか?』の記事をご覧ください。
重要な仕事やプロジェクトをやり遂げたとき、だれもが自分に与えられた「使命」は何かと、考えるのではないでしょうか。あなたも生きる意味を明確にしたいと思いませんか。人生に達成感を感じたいと思いませんか。
聖書の神は、あなたでしか成し遂げられない使命を実行するために、あなたを創造しました。あなたは神からも、人からも必要とされた存在です。神は、与えた使命を達成できるように、あなたを導き、サポートします。
神は、あなたの生涯を意義あるものにすると約束しています。私たちは、神との個人的な関係を通して、神があらかじめ備えた善い行いを行うことができるのです。
「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」※29
私たちは、人の役に立ち、社会に貢献できるのです。神のマスタープランの一角を担うように、創造されたのです。
日々語りかける神
神は毎日、私たちが聖書を読み、祈る習慣の中で、私たちに語りかけます。毎日の神との時間を、神は何よりも喜んでいます。この日々の神との時間を「ディボーション」と呼びます。神に祈り、聖書を読むときに、私たちが最善のことを生活の中で行うことができるように、神は私たちに聖書のことばによって語りかけます。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」※30
この聖書の約束は、私たちの生涯が完全で、問題が全くなくなると言っているものではありません。人生には、病気やさまざま問題がつきものです。人は失敗もします。人生が完璧になるわけではないのです。しかし神は聖書のことばで導き、私たちの人生をより豊かなものに変えてくれます。
聖書のことばは、今の現実でどう行動すべきかの指針を与えます。今の現状を神の視点で見ることができます。今日一日持つべき心の態度、避けるべき行動がわかります。
※ディボーションの持ち方に関しては、『毎日聖書』の記事をご覧ください。
神を知ることの恵みは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」※31 という神の品性に触れ、私たちの人生にも神の品性が少しずつ形造られることだと、聖書は語ります。
私たちはだれかから愛され、受容されたいと願うものです。また自分の生活が日々、充実することも願っています。
私たちの心には「渇き」があります。でも人生の「渇き」を、お金や持ち物、日々のスケジュール、恋愛やこの世の快楽で、満たすことはできません。
心の渇きを満たす神
人生の「渇き」を満たすことができるのは、神だけです。神が人生に充実させてくれます。イエスは次のように語ります。
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」※32
「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」※33
人の内面には「空洞」があります。この空洞は神だけしか満たすことができません。聖書の神は、私たちの内面の「渇き」を満たす方です。
聖書は、世界を創造した神はただひとりだと語っています。そして、この創造主である神は、人が理想的だと考える性質をもつ方です。他に「神」の存在を探す必要はありません。聖書が語る神は唯一無二の最善の神だからです。
この記事は、聖書が語る神がどのような方か、その表面的な部分をお伝えしただけに過ぎません。「聖書が語る神がどのような方か」を知りたいと願うなら、新約聖書『ヨハネの福音書』を読むことをおすすめします。 こちらの聖書通信講座も良い助けになるはずです。もしあなたが真剣に求めるならば、神があなたに神ご自身の明らかにしてくれます。神はこう語ります。
「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」※34
「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」※35
信仰による決断
この理想的な神をどのように見つけることができるでしょう。神との関係を始めることは、結婚に例えることができます。まずだれかと結婚するとき、「この人と結婚しよう」という決意が必要です。同じように、神との関係を始めるときも、神に「あなたとの関係を始めたいです」という意志による決断をする必要があるのです。
イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死にました。そして三日後に、死からよみがえりました。イエスは、今も生きています。
このイエスに信頼するならば、イエスはあなたに新しいいのちを与えてくれます。
「わたしの父のみこころは、子(イエス)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」※36
神は人を、えこひいきすることはありません。すべての人にイエスを信じて、神の家族に迎え入れられる特権が与えられています。神の家族は「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」※37 で構成されているのです。
あなたが過去にどのような罪を犯したとしても、神との関係が始まる障害にはなりません。イエスが、あなたのすべての罪のために十字架で死んだからです。神は、あなたの罪の問題をも解決する道を開いたのです。
問題は、あなたの過去がどうであったかではありません。あなたの罪の身代わりに死んだイエスを、あなたが信じるかです。
関係を求める神
イエスを信じるときに、神との関係が始まります。神とのこの関係は、永遠に続きます。同時に神との関係は生涯、成長し続け、成熟していくものです。
神との関係は人間の親子関係に似ています。神との関係が良いときもあります。関係が疎遠になったと感じるときも、将来、あるかもしれません。楽しいときもあります。関係に葛藤を感じることもあるでしょう。
しかし私たちの感覚はともかく、神との関係は永遠に変わりません。神はあなたとの親しい関係をいつも期待しています。あなたはこの神の期待にどう応答しますか。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」※38
もしあなたが、神の子どもとしての関係を始めたいと願うなら、以下のように祈ることをおすすめします。神はあなたの心を見ています。ぜひ以下のように祈ってください。
「神さま、私はあなたに造られ、愛されていることを聞きました。私の罪をゆるすため、罪のないイエスさまが代わりに死に、よみがえられたことを感謝します。今、あなたに信頼します。どうぞ、あなたとの新しい関係の中で、私の人生をともに歩んでください。アーメン。」
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