マリリン・アダムソン
人生には資格が必要な時があります。運転免許を取るには、試験に合格する必要があります。ある仕事に就くためには、それにふさわしい資格が要求されます。
「A」の資格があって、「B」の仕事ができるというものです。資格の取得が、自分がその仕事にふさわしいことを証明するのです。
では神から受け入れられるために、あなたにどのような資格が必要なのでしょう?
神との関係は「○○の資格があるから、あなたを受け入れます」というものではありません。
神との関係は「わたしはあなたを受け入れている」「あなたを歓迎している」という、神のことばから始まります。
あなたが“LGBTQ+”、レズビアンやゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、性自認が決まっていない方であっても、神はあなたの敵ではありません。まだ神との関係が築かれていないならば、神はあなたとの関係を始めたいと願っています。誰とでも、どのような立場の人とでも、神は関係を始めたいと願っているのです。聖書を読むと、イエスに怒りをもって接していたグループが、常に存在したことに気がつきます。そのグループとは、自己義認する当時の宗教家たちでした。
イエスは、売春をする人、犯罪者でさえも、だれとでも関わりました。しかし当時の宗教的なエリートに、イエスは憤り、悲しんだのです。彼ら宗教家たちは批判的で、横柄で、愛がなく、偽善的だと、イエスは見ていました。
当時の宗教家たちの態度を見て、“LGBTQ+”の皆さんは、批判的で宗教的な「クリスチャン」のことを思い出すことでしょう。彼ら宗教的な「クリスチャン」の“LGBTQ+”の皆さんへの辛辣な批判は、イエスの心を表すものなのでしょうか?決してそうではありません。
イエスは「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われました。イエスの心はこの聖書のことばに現れています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしはあなたがたを休ませてあげます。わたしの心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」※1
イエスは、他の人に語りかけるのと同じあり方であなたにも、人生について説明しています。どのように新しい人生を得て、その人生をどう豊かに過ごすべきなのかを、イエスはあなたに語っているのです。イエスはすべての存在の創造主です。しかし、このイエスが人となりました。それは私たちがイエスを知り、神を知るようになるためでした。
イエスの親友の一人、ヨハネがイエスについてこう語っています。
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」※2
「恵み」ということばを、私たちは普段、使わないように思います。「恵み」とは、私たちにはそれを受ける資格がなくても、神から与えられる親切のことです。イエスは私たちに「親切」とともに「まこと」すなわち「真理」を与えます。「真理」とは人生を導くものです。
私はかつて、神に受け入れるために何をすれば良いのか、と考えていました。この真理を知ったとき、私は驚きました。皆さんもきっと驚くことでしょう。その真理とはこれです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」※3
お気づきでしょうか?「イエスを信じる者は」だれでも永遠のいのちを持つのです。イエスを信じる人はだれでも、イエスによって救われます。イエスを信じる人はだれでも、さばかれることはありません。
聖書は私たちにこう呼びかけています。…「イエスを信じましょう。」
ヨハネはイエスについてこう語っています。
「この方(イエス)はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」※4
イエスは単なる預言者や教師、宗教指導者ではありません。イエスを知る人は神を知るのだと、イエス自身が語りました。イエスを信じることは、神を信じることです。このイエスの発言から、イエスは十字架にかけられました。当時の宗教指導者は、イエスのこの発言を神への冒涜だと見なしたのです。宗教指導者たちは、イエスが「神を自分の父と呼び、自分を神と等しく」※5 したと判断したのです。
イエスは多くの証拠を示しました。人にはできない多くの奇蹟をイエスは行いました。目が見えない人の視力を、瞬時に回復させました。足の不自由な人をいやし、病で苦しむ人の病気を治しました。
しかしイエスは、奇蹟以上のことを行ったのです。イエスがのちに逮捕され、鞭打たれ、十字架につけられることを、イエス自身が予告していたのです。そればかりではなく、死後、3日目によみがえることも前もって語っていました。イエス自身の預言とその実現が、確固とした証拠となります。
輪廻転生でもなく、象徴的に「あなたの夢に現れる」と言ったのでもありません。死んで埋葬され、3日後に、イエスは死者の中からよみがえると語ったのです。
当時のローマ総督がイエス自身の生前の預言を知ったとき、イエスの墓に軍隊を派遣しました。
しかしイエスは、十字架で殺されて3日の後に肉体をもって、墓からよみがえりました。イエスの遺体がどこかに消え、遺体を包んだ布だけが墓に残っていました。その後、40日間、イエスは肉体をもって何度も、弟子たちに現れました。ここからクリスチャンの信仰が始まったのです。イエスの復活は、イエスが自分について語ったすべてが、事実であったことを証明したのです。イエスは、神が肉体をもってこの地上に来た存在であり、父なる神と同じ神であったのです。
イエスはこう語ります。
「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」※6
イエスを信じるとき、「神はあなたを愛している」ことを知って、人生を歩むようになります。だれもが愛に飢えています。人からの愛も大切です。しかし誰かから愛されたとしても、人の愛は不完全です。
しかし神の愛は完全です。神はあなたを愛しています。それは神のご性質が愛だからです。神の愛は変わることなく、終わりがありません。
私たちはみな、混乱の中で生きています。私たちは、自分に課した基準にも、完全に従うことができません。ましてや、神の基準に達することはできません。私たちの成し遂げた業績で、神が私たちを受け入れるのではありません。ただイエスを信じ、イエスのもとに来る人を、神は受け入れてくれるのです。イエスを神として、あなたの人生に受け入れるのです。
イエスとの関係はどのようなものかを、イエスご自身がこう語っています。
「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」※7
積極的な意味でも、否定的な側面でも、人との関係があなたの人生に多大な影響を与えます。その関係が大切であるほど、人生への影響は計り知れないほど大きなものです。
神を知ることが、意義深い関係へと発展します。でもあなたには自由意志があります。神があなたの人生を乗っ取るということはありません。神が願うような行動をするように、神があなたに無理強いをすることもありません。むしろ私の場合、神の知恵や優しさ、私の人生に向けられた神の関心に感銘を受ける、私自身を発見しています。
神はこの社会での論争に左右されません。宇宙を創造した神は、社会の価値観にも影響されません。神は社会観念からは全く自由です。
私がイエスと出会ってから、神が私に何をしてくださったのでしょう。
かつての私は無神論者でした。しかし神を信じ、聖書を読み始めたことが、私の人生の大きな転換点となりました。それは記念碑的な出来事でした。
イエスを人生に迎えて数ヶ月したあと、親友にこう聞かれました。「あなた、変わったわ。自分の変化に気づいている?」「それはどういう意味?」彼女はこう言いました。「近頃あなたは、私の話を茶化したりせず、ちゃんと聞いてくれているように感じるの…。」
そう聞いて、少し恥ずかしくなりました。私はようやく話がわかる、まともな人間になったと言われたように感じたのです。
実際のところ、彼女はただ私の変化に驚いていたのです。のちに彼女もイエスを信じる決心をするのです。
神との関係が始まったとき、神は私のことを愛していることがわかりました。驚きでした。聖書のどこを読んでも、読む内容がまるで「神がどれだけ私を愛しているのか」という、個人的なメッセージのように感じたのです。事実、成長の過程で、神の基準に達していない私に、神は怒りを覚えていると、私は勝手に感じてきました。それでも「神が私を愛している」というメッセージは、驚きでした。
私の「愛されたい」という感情面の必要に、神の愛はぴったりと寄り添うものでした。神の愛を知り、私は感情的にとても安定しました。私は自分のこと以上に、人のことを考え、配慮する人になりました。人の話を良く聞き、人の面倒をよくみる人に、私は変えられました。また、私のうちにある頑なさや偏見にも気がつきました。イエスは、私たちが彼から学び、導きを受けるときに「人生は変わる」と約束しています。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」※8
イエスとの関係が始まるならば、心の態度が変わります。失望は消え去ります。他の人への見方が変わります。時間を使い方も変わります。あなたがどう変わるかは、神だけが知ることです。イエスを知ることは、あなたの人生に大きなインパクトを与えます。ぜひ、近くのイエスを信じる人に聞いてみてください。彼らがどのようにイエスを信じたのか。信仰が彼らの人生にどのように影響を与えたか、彼らが教えてくれるでしょう。
「神に従いたい」という心からの願いは、神が与えてくれます。自分でも期待していないあり方で、「神に従いたい」という心が与えられるのです。従うべき新たな業務命令書が、与えられるのではありません。自分の努力で、神のために何かをやることでもありません。宗教的献身によるものでもないのです。
神に従いたいという願いは、神との関係、神との親しい友情からくるものです。
神が、あなたを個人的に導き、神について、人生について教えるのです。私たちが神を迎えるとき、神が人生に入ってきます。神があなたに影響を与えます。内側から外側へ、心のレベルから行動へと変えられるのです。人間関係でも、仕事やスポーツ、娯楽においても、「決定的瞬間」があるものです。しかし「決定的瞬間」は一瞬で終わります。快楽から来る満足は、長続きはしません。この世の何ものも永遠には続かないのです。
私たちは永続するものを求めています。永続するものこそ、信頼に値いするものだからです。イエスは語ります。
「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく…決して渇くことがありません。…わたしのもとに来る者は、わたしは決して外に追い出したりはしません。」※9
私は長年、どんな状況でも助けとなる、人生哲学のようなものを探してきました。しかし神を知ったとき、その探究は終わりました。イエスこそ信頼に値することがわかったからです。
イエスとの関係は、他の人間関係とは全く異なるものです。あなたは特別な経験をもつ一個人です。独自の思考、関心、夢や心の必要をもっています。新約聖書の4つの福音書を読んでみてください。各個人の存在を大切にしながら接する、イエスの姿に気がつくことでしょう。
神との関係は必ずしも、困難からあなたを守る盾になるとは限りません。人生には、経済的葛藤や病気、事故、地震、関係上の悲痛の時を通ることもあります。苦しみも当然あります。問題はあなた一人で苦難に立ち向かうのか。それとも、人生の苦難を通る時、神の愛を感じ、ともにいる神との親しい関係の確信の中で、それを乗り越えるのかです。神があなたを、挑戦に満ちた人生のひと時や、個人的に犠牲を強いられる場面に導くこともあります。でもそれは同じ経験をする人たちを将来、あなたが慰めるためです。
イエスの弟子たちの多くは、今日のクリスチャンを含め、途方もない苦しみを通ってきました。たとえばパウロは逮捕され、殴りつけられ、鞭打たれたことが何度もありました。一度は暴徒から石打に遭い、瀕死の状態になりました。何度か船が難破し、食べ物もなく、命からがら避難せざる得ないときもしばしばありました。
イエスに従う人生は、容易なものではありません。しかし神の愛へのパウロの確信は、揺るぎません。
「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」※10
人生は計画通りには進まないものです。あなたがゲイやレズビアン、バイセクシャルやトランスジェンダー、またはご自分の性認識に疑問があっても、あなたが望むなら、イエスはあなたの人生を導いてくれます。イエスは、あなたの想像以上にすばらしい方法で、あなたを導くのです。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」※11
あなたが今まで何をしてきたとしても、イエスは完全にゆるしてくれます。あなたの罪を見て、見ないふりをするのではありません。イエスが十字架の上で、あなたの身代わりに犠牲となり、罪の代価が支払われたのです。
今まで、誰かがあなたの代わりに、人生を犠牲にしたことはありましたか?イエスが十字架の上で行ったことが、まさに究極的な犠牲だったのです。イエスはあなたをそれほど愛しています。イエスはあなたの人生をともに歩み、あなたとの関係を確立させたいと願っています。
神を知りたいと願いませんか?イエスをあなたの人生に迎えてみませんか?神との関係こそが、あなたの人生に真の充足を与えるのです。神なしに、真に満ち足りた人生を歩むことはできません。
まず神に語りかけてください。このように祈ってみたらどうでしょう?
「イエスさま、あなたを信じます。私の罪のために十字架で死に、私とあなたとの関係を与えてくださり、ありがとうございます。あなたに、私の『神さま』になってほしいのです。あなたをもっと知りたいのです。あなたの愛を体験させてください。今、私の人生を導いてください。」
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