ジョシュ・マクドウェル
私は幸せになりたいと望んでいました。どうせなら、世界一の幸せな者になりたいと願っていたのです。しかし現実の私は、ケンカ早く、人間関係がギクシャクすることが多かったように思います。理想の自分になるために、自分でもいろいろ試しました。試行錯誤の中で、いつも心に、人生に関する3つの質問がありました。3つの質問とは…
「私とは何者なのか?」
「私はなぜこの世界に存在しているのか?」
「私はどこに向かっているのか?」
理想の自分になりたいと、私はいつも努力していました。同時に、自由でありたいとも願っていたのです。私にとっての自由とは、ただ自分の好きなことをすることではありません。自由とは「自分がなすべきことを実行する力を持つこと」です。多くの人は、理想の自分となるために、何をなすべきかを知っています。しかしそれを行う力がないのです。
理想の自分になるために、多くの人は宗教に助けを求めます。そこで私も、教会に足を運んでみることにしました。しかし教会に行った後、逆に心が重くなりました。しばらく教会に、通い続けました。でも私には、役に立ちませんでした。私は実用性を重んじる性格です。「うまく行かなければ、やめればいい」と考えます。結局、宗教に答えを見出すことを諦めました。
次に、人から評価される人生が、理想の自分ではないかと考えました。リーダーとなり、有名になれば、答えが見つかるはずだと思いました。私の大学では、学生会の役員に大きな権限が与えられていました。学生会が大きな予算を握り、大学全体に影響力を及ぼしていました。そこで1年生会の会長選挙に立候補しました。すると、見事に当選を果たしました。
学生たちが皆、会長である私のことを知るようになりました。さまざまな企画を練り、運営しました。自分の好きな講師を大学の予算で招き、数々の講演会を開きました。非常にやりがいがある役割でした。しかししばらくすると、学生会への興味も薄れてしまいました。
月曜の朝は、決まって頭痛で目が覚めました。「これからまた5日もあるのか…」心の中でこう呟いたものです。月曜から金曜日までは、我慢の日々でした。幸せだったのは週末のパーティーだけです。それ以外は、ひどい1週間の繰り返しでした。
学生会で頑張っても、むなしい毎日が続きました。そんな中、自分が生きる意味は何だろうと考えるようになりました。大学の中を見渡しても、人生の意味や目的を、真剣に求める学生は、ほんの一握りしかいないものです。
そんなとき、大学にクリスチャン・サークルがあることを知りました。学生8人と2人の教授の小さな集まりでした。彼らクリスチャンの生き方は、他のみんなとどこか違って見えました。彼ら自身は、なぜ信仰を持っているのか、自分が信じるものは何かを、よく理解しているようでした。彼らは、人生の進むべき方向がわかっているようでした。
彼らクリスチャンは、単に愛について語るだけではありません。積極的に、人を愛そうとしていました。多くの大学生は、今が楽しければいいと割り切って、大学生活を送るものです。しかしクリスチャンの彼らは、状況に左右されず、心に深い平安を持っていました。いつも心のうちに喜びの源を持っているようでした。彼らの人生は幸せそうです。彼らは、私が持っていない何かを持っていたのです。
私も、彼らが持つものがほしいと思いました。彼らと友だちになりたいと願うようになりました。私も思い切って、学生センターで行われていた、クリスチャン・サークルのミーティングに参加することにしたのです。その日、サークルには6人の学生と、2人の教授が参加していました。ディスカッションのテーマは、次第に「神」に絞られていきました。
宗教的な話題に、私は次第にイライラしてきました。私の関心はむしろ、そこに参加していた1人のかわいい女子学生に向いていました。それまで、クリスチャンはダサいという偏見を持っていました。私の目は自然と、彼女の方に向いていました。当然、周りの学生たちには、私が彼女に好意があることを悟られないように、彼女へある質問をしてみました。
「人生が変えられたと今、話していたけど、具体的にはどう変わった?クリスチャンの生き方は、他の学生とは確かに、違うように見えるけど、その理由は何?」
彼女は、私をじっと見つめて、こう語りました。「その理由はイエス・キリストです。」私が予想もしていなかった答えでした。
私はとっさにこう答えました。「ああ。宗教か!? もう少しまともな答えが聞けると期待していたんだけど…。僕も教会に行き、聖書も読んだけど、さっぱり役に立たなかったんだ…。」
彼女はこう語ります。「すみません。私は宗教について話したのではありません。イエス・キリスト、そのお方について話したのです。」
今まで知らなかったことを、彼女は私に教えてくれました。確かに、キリスト教は単なる「宗教」ではありません。「宗教」とは、人が自分の行いによって神に近づこうとする行為です。
一方、聖書が教えることは、神であるイエス・キリストが人となり、私たちのただ中に住んだということです。イエスの方から私たちに近づき、神とコミュニケーションが持てる関係を築いてくれたのです。クリスチャンとは、イエス・キリストに信頼している人のことです。
クリスチャン・サークルの彼らは、イエスについてまずは知的に検討してみるように、勧めてくれました。私は、イエスの神性の証拠をもう一度、見直してみることにしました。釈迦も、ムハンマドも、孔子も、自分が神だとは主張しませんでした。イエスだけが自分が神だと宣言したのです。
イエスは神が人となって、この地上に来ました。イエスは人類の罪のために、十字架の上で死に、墓に葬られました。そして3日目に、死からよみがえりました。このイエスには、私たちの人生を変える力があるのです。
当時の私には、これはバカバカしいことでした。私はどこかで、クリスチャンは間抜けな存在だと考えていました。私はよくサークルの会合に行っては、クリスチャンの学生に議論を吹っかけていました。そして、相手を論理的に打ち負かそうと躍起になっていました。クリスチャンの教授にも、突拍子もない質問で浴びせ、先制の一撃でディベートを封じ込めました。クリスチャンは、信仰を盾に思考を停止させた人だと考えていました。
しかしクリスチャン・サークルの彼らは、懲りずに何度も、自分で聖書を読むようにと、私を促しました。私は高慢ながら、彼らを論破しようとしました。聖書には、検証可能な証拠はないと、考えていたからです。
しかし、数ヶ月に及ぶ研究と検証の結果、私はイエス・キリストが神の子であるという知的結論に至りました。頭ではこう認識できました。しかしこれを心で受け入れるのには、かなりの葛藤がありました。
キリストを信じるには、自我の抵抗を乗り越える必要があったのです。イエスを信じるようにと、神は私の意志に迫ってきました。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」※1
たとえイエスが湖の上を歩いても、水をぶどう酒に変えたとしても、私の人生には関係がありません。ただイエスのように、今の楽しみに水を差すような存在は、私には必要を感じませんでした。この世界の快楽を捨てるなど、私には考えられませんでした。だから、理性ではキリスト教は正しいと思っていても、私の意志は信じたくなかったのです。
彼ら、熱心なクリスチャンと一緒にいると、心の葛藤が激しくなりました。私一人苦しんでいて、周りの皆は楽しそうにしているのが、苦痛で仕方ありませんでした。
実際に聖書研究会の途中、感情的につらくなって、席から突然立ち上がり、学生会館から飛び出して、家に帰ったこともありました。その苦悩はさらに悪化し、夜10時にベッドに入っても、朝の4時まで眠れない日々が続きました。何か対処しないと、気が変になってしまうと思いました。
そしてついに、聖書は正しいという頭の理解が、心にストンと落ちる日がきました。それは1958年12月19日午後8:30のことです。私はイエス・キリストを信じる決心をし、クリスチャンになったのです。大学2年生の冬のことでした。その夜、私は4つのことを祈りました。
一番目の祈りとは「イエスが私のために十字架に死んでくれて、ありがとうございます。」
第二の祈りは「私の人生で、神が喜ばない罪を告白します。私をゆるし、きよめてください。」
第三番目に「今、私は心の扉を開き、イエスを救い主、人生の導き手として、私の人生にお迎えします。私の人生を導いてください。あなたが望んでいる者に、内側から私を変えてください。」
最後の祈りは「私の人生をイエスがともに歩んでくださり、感謝します。」
私のこの決断は、訳もわからず、ただ信じた、というものではありません。歴史的証拠と聖書のことばに基づいて、信じたのです。
皆さんも、何か「雷に打たれたような」体験をしたという経験談を、聞いたことがあるかもしれません。しかし、私がイエスを人生に迎え入れる祈りをしたとき、何か特別な体験をした訳ではありません。奇跡的なことは、何も起こりませんでした。急に背中に羽がはえて、大空を飛び回る経験もありませんでした。
むしろイエスを信じる決心をして、気分が悪くなりました。吐き気すら感じるほどでした。「まさか、だまされた訳ないよな?」自分がおかしくなってしまったと感じました。実際「あのジョシュがイエスを信じるなんて、気がおかしくなった」と思った人もいたほどです。
イエスを信じて、私の人生は変えられました。それから、1年ほど経ったころ、学生会の繋がりで、アメリカ中西部の大学に招かれたことがあります。その大学の史学部の学部長と公開ディベートをすることになりました。私はディベートの席で、自分の人生が変えられた経験を話しました。すると、教授は私の発言をさえぎって、こう質問しました。
「マクドウェルくん、まさか神があなたの人生を変えたなんて、言うのではないですよね?もう少し具体的に、神があなたの人生の何を変えたのか、教えてくれませんか?」
その後、45分間、私の体験を説明しました。私の話を一通り聞いた教授は、ついにこう言いました。「わかった。もういい。これで十分だ。」
私がイエスを信じた後、神は私の人生を少しずつ変えていきました。イエスを信じる前、私はいつも将来への不安で、心が支配されていました。私は常に何かに没頭しないと、不安で仕方がありませんでした。
大学で、私はいろいろな活動に没頭しました。それでも、私の頭の中にはいつも、葛藤が渦巻いていました。何かしていないと気が気ではありません。じっと座って、勉強をしたり、じっくり物事を考えたりはできませんでした。
しかしイエスを信じてから、心に平安と安らぎ、ゆとりが生まれました。もちろん、すべての葛藤がなくなったのではありません。葛藤に対しても、イエスと一緒に、対処できるようになったのです。イエスとの関係が、私の心にゆとりを与えました。
もう一つ、神は、私の癇癪もちの性格を変えてくれました。以前の私は、すれ違いざまに視線が合っただけで、キレて暴言を吐く性格でした。大学1年のとき、キレて危うく相手を殺しかけたこともありました。キレる性質も私の一部だと感じ、それを変えたいと意識したこともありませんでした。
それがあるとき、以前なら絶対、癇癪を起こした出来事に、私はキレず、その場をやり過ごしました。キレる性格が治っていたのです。正直にいうと、その14年後に一度だけ、感情を爆発させてしまったことがあります。問題が解決し、真の和解を得るまで、その後6年を要しました。
私が変えられた領域は他にもあります。決して人に誇れるようなものではありませんが、あえてここで書くのは、私の経験が読者の皆さんの役に立つからです。私を変えたのは、まさにイエス・キリストでした。
私が取り扱われた領域は、憎しみでした。かつて私は、多くの憎しみを抱えていました。表には出しませんが、私の内面は憎しみで蝕まれていたのです。人を憎み、よく腹を立て、いらだちを覚えていました。
その中でも、私が世界一憎んでいたのが父でした。父はアルコール依存症で、町中で有名でした。友だちから、町で酔っ払う父のことを、よくからかわれました。外面では、友だちと父のことを一緒に笑って、冗談を言い合っていました。しかし心では泣いていたのです。
父に暴力を振われた母が、牛小屋の中で倒れて、動けなくなっていたこともありました。友だちが家に遊びに来るときは、酔っ払う父を連れ出し、納屋に閉じ込めたこともありました。そんな父を、私は何よりも憎んでいたのです。
しかし、イエスを信じたとき、私の人生は変えられました。神の圧倒的な愛を感じ、憎しみの感情が取り除かれ、愛情が自然と芽生えました。あるとき、私はまっすぐ父の目を見て、こう言うことができたのです。「お父さん、僕はお父さんのことを愛しています。」
心からそう思うことができました。今までは憎しみを機会あるごとに表していた、この私が変えられたのです。父も、私の変化を見てとりました。
私は別の大学に転学した年、大きな交通事故に遭いました。退院後、首にコルセットをはめて、自宅療養することになりました。家に戻ると、部屋に父が入ってきました。父は私にこう質問しました。「なぁ。俺みたいな父親を、どうして愛することができるんだ?」
私は父にこう伝えました。「お父さん、確かに半年前、僕はお父さんを軽蔑していた。」そしてイエスを信じるに至った経緯を伝えました。「僕はイエスを信じました。うまく言えないけど、憎しみが取り去られ、代わりに人を愛することができるようになったんだ。僕はお父さんを愛している。お父さんのことを、ありのままで受け入れているだ。」
その45分後、生涯で最大の感動が、私に訪れました。最愛の家族であり、私のことを知り尽くしたあの父が、私を見つめてこう言ったのです。
「神さまが、お前の人生にしたことを、俺の人生にもしてくれるだろうか。イエスを救い主として、受け入れたいんだ。」
その場で、父はイエスを信じる祈りをしました。父はイエスの十字架によるゆるしを信じたのです。
普通、イエスを信じると、数日、数週間、数ヶ月、数年かけて、人生の変化が起こるものです。しかし父の変化は私の目の前で、すぐに起こりました。あたかも神が手を伸ばし、ライトのスイッチをつけたように、一瞬に起こりました。私は後にも先にも、このような劇的な変化は見たことはありません。
その後、父がウィスキーに手を出したことが、一度だけありました。しかし父はグラスを口元に持って行きましたが、すぐにグラスを口から離し、ウィスキーを飲むことはありませんでした。イエス・キリストとの関係が、父の人生を変えたのです。
キリスト教をばかにして、笑うのは自由です。しかし聖書には力があります。人生を変える力があります。イエスを信じれば、あなたの性格、行動が変わります。イエス・キリストによって、人生は変えられます。
しかし神は、あなたが無理やりイエスを信じるように、強いることはありません。私たちができることは、ただ自分が学んだことを伝えるだけです。信じるか、信じないかは、あなたの決断です。もしあなたがイエスを信じたいと願うならば、次のように祈ってください。
「主イエスさま、私はあなたを必要としています。私のために、あなたが十字架についてくださり、ありがとうございます。私の罪をゆるし、きよめてください。あなたを救い主、人生の導き手として信じます。あなたが望んでおられるように私を変えてください。イエスの名前で祈ります。アーメン。」
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著者紹介:
ジョシュ・マクドウェル Josh McDowell
国際キャンパス・クルセード・フォー・クライストの巡回伝道者。米国カルフォルニア州のダルボット神学校より神学修士を取得。現在までに118カ国、700以上の大学で講演。著書は共著を含め120冊以上ある。
邦訳された本には
ジョシュ・マグドウェル著, 山口昇訳『キリストは神か偽善者か』いのちのことば社, 2005.
ジョシュ・マクドウェル著, 中村光弘訳『徹底検証キリスト教』第1巻, いのちのことば社, 2007.
『徹底検証キリスト教』第2巻, いのちのことば社, 2014. 『徹底検証キリスト教』第3巻, いのちのことば社, 2020.
ジョシュは現在、妻ドティとの間に4人の子どもが与えられ、孫も5人いる。
脚注:(1) 黙示録3:20