2019年11月、ローマ・カトリック教会※1のトップ、フランシスコ教皇※2が来日しました。11月25日、東京ドームで行われた教皇司式のミサには、5万人が参加しました。私もご招待をいただき、ミサに参加しました。
ミサ開始は午後4時でした。しかし開場時間は午後1時。私たちは1時過ぎには入場しました。5万人全員がセキュリティー・チェックを受け、東京ドームの指定の席に各自座るために、3時間を要しました。
「四日市カトリック教会」「函館…」「佐世保…」… と日本全国の地名が書かれたボードを先頭に、参列者たちは各階の席に誘導されて、整然と着席していきました。日本以外からも、韓国、ベトナム、フィリピン、アジア太平洋の各国…からも多くのカトリック信者の皆さんが参加しました。
5万人全員が着席。全員でミサのテーマソングを練習。教皇を歓迎する小旗も配られました。ミサ中、中座できないので、トイレも済ませて、教皇の到着を今か今かと待ち望みます。
午後4時。教皇到着のアナウンスがあり、音楽が鳴り響きます。5万人全員が立ち上がります。練習したテーマソングを皆で歌います。野球のリリーフピッチャーが乗る、白いオープンカーに乗って、教皇フランスコがスタンド裏から登場します。拍手喝采と総立ちの5万人。振る小旗の音でドーム全体に響き、熱狂は最高潮に達しました。
教皇を乗せたオープンカーは、ドーム1階をゆっくり1周半周ります。教皇は投げキッスをし、時折、車を停めて、最前列の子どもを抱き上げ、顔にキスをします。まるでイエス・キリストを迎えるばかりの熱気と歓声に、ドーム全体が包まれました。
しかしミサが始まると、それはとても厳粛なものでした。教皇フランシスコが優しい、トーンの高めの声が響きます。ドームはシーンと静まりました。教皇フランシスコが司式するミサは荘厳で、キリストの愛と配慮に満ちたものでした。
参加者と教皇、交互で聖書が読まれました※3。教皇はアシスタントの若い司祭たちと、粛々とミサを進めていきます。無駄ない所作は、美しく、キレキレのダンスを見ているようで、見ている私たちを魅了しました。ミサの式全体を通して、イエスがどのような方かを表しているようでした。ミサの3時間は、プロテスタント信者の私にも、すばらしく、目が開かれる時間でした。
毎週日曜日の信者の集まりを、プロテスタントでは「礼拝」と呼んでいます。カトリックでは「ミサ」です。「ミサ」とは、ラテン語“ite”(行きなさい)が語源なのだそうです。「ミサ」の最後に、神父※4が「ここから(世界へ)行きましょう」と呼びかけることから来ています。
「ミサ」の中心は、「聖体拝領」※5が中心です。プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます。パンとぶどう酒(ぶどうジュース)が配られ、参加者全員で食します。イエスの十字架と復活を覚え、教会がイエスにあって一つであることを覚えます。イエスが十字架につく前夜、最後の晩餐で、イエスがパンとぶどう酒を弟子たちに配り、皆で食したことから始まった「礼典」です。
「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』食事の後、同じように『この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」※6
カトリックは、神父が司式をするそのときに、パンとぶどう酒がその場で、キリストの血とからだに変わると解釈します。プロテスタントでは、パンとぶどう酒はイエスの十字架の苦難を表す、「実物教材」と考えることが一般的です。
私たち、人間はすべて罪の状態にあります。聖書はこう語ります。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず…」※7
そして人が罪を犯した結果、私たちの人生は「死」という終わりが来ます。「罪の報酬は死です。」※8 死後、すべての人は神の裁判の被告人席に立たされるのです。
人を罪から救うため、この世界に遣わされのが、神の御子イエス・キリストです。イエスは人となり、私たちの罪の身代わりに十字架につきました。十字架は、ローマ帝国の極刑です。
本来、無罪であるイエスが徹夜の裁判を受け、死刑判決を受けました。拷問によってムチで打たれ、背中からは大量に出血していました。そして、十字架を背負って、エルサレムの城壁の外、ゴルゴダの地に連行されます。城壁の外の丘で、イエスの手と足は十字架に釘づけにされました。大量の出血と、その肉も切り裂かれました。朝9時から午後3時まで、イエスは十字架で苦しみ、死にました。イエスの死は、私たちの罪の身代わりでした。
このイエスの十字架と3日目の復活を信じるとき、私たちの罪がゆるされます。神の子どもとなる特権が与えられます。クリスチャンになるのです。
ミサの最後に、パンを食べ、ぶどう酒を飲むことで、イエスの十字架の身代わりの死と復活を再確認します。これがカトリックで言う「聖体拝領」、プロテスタントの「聖餐式」です。
クリスチャンとは、イエスの十字架と復活を信じる人です。カトリック、プロテスタント…、その表現の違いは、救いには関係がありません。大切なのは、イエスに対する信仰そのものです。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしの遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」※9
カトリックは、現在のような印刷技術がなく、手軽に聖書を読めない時代、聖書の場面を絵画やステンドグラス、彫像で表現して、人々に伝えた経緯があります。カトリック教会の壁面が、絵画やステンドグラスで飾られているのは、教会堂そのものが聖書の物語を表しているからです。教会堂の正面に架けられた十字架にもイエス像が掛けられているのは、それを見た人々がイエスを思う浮かべる教育的な効果のためです※10。
一方、プロテスタントは、宗教改革以来、「聖書のみ」の信仰を大切にしてきました※11。信者一人ひとりが、聖書を落ち着いて読み、祈ることに集中できる環境を重視しました。そのため、教会堂の作りもシンプルです。牧師の服装にも派手さはありません。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるのです。」※12
私たちはみんな、罪人です。しかしイエス・キリストの十字架、復活の業が神の恵みです。このイエスの恵みの業を信じる信仰によって、私たちは義と認められるのです。
ミサの意味は「行きなさい」でした。ミサの中で、イエスと毎週出会い、教会から社会に出て「行く」ことが大切です。これは、プロテスタントも同じです。この社会の中で、私たちの人生がどのようにイエスの姿を表すのかが、問われています。クリスチャンは、この世界へと遣わされた存在なのです。
カトリック、プロテスタントと信仰の表現は違います。しかし大切なことは、イエスを信じる信仰が、救いだということです。イエスを信じる、信仰が人を造り変えます。
聖書が語るイエスの信仰については、こちらのページをご覧ください。
「愛されているあなたへ Falling plates」
イエスの十字架に関しては、この記事をご覧ください。
「なぜイエスは死んだのか』
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脚注: (1) カトリック教会はイタリア・ローマのバチカンに本部を置いています。ローマ教皇が中心となり、世界に12億人以上の信者がいます。一方、プロテスタント諸派の合計は5億人です。ローマ教皇は使徒ペテロの後継者とされ、カトリック全体を導く存在です。ちなみに「カトリック」の意味は「普遍的な」という意味です。
(2)現在の教皇フランシスコは2013年に就任。第266代目の教皇になります。教皇フランシスコは1936年南米アルゼンチンで生まれました。イエズス会に入会し、1969年に司祭に任命されます。枢機卿時代は、大邸宅である司教館ではなく、近くの小さなアパートに住み、公用車を断り、交通公共機関を利用して通勤していました。しっかりとした信仰であるとともに、気さくな人柄の教皇フランシスコはとても人気があります。
(3) プロテスタントの信仰と生活の規範は聖書です。旧新約聖書66巻を正典としています。一方、カトリックの信仰の規範は「聖書と聖文」です。聖文とはカトリック教会の伝統のことです。同時にカトリックの聖書は66巻とともに、旧約外典を加えられています。1962-1965年の第二バチカン公会議以降、カトリックでも原典から各国語への聖書翻訳が推奨されるようになりました。日本では、1987年にプロテスタントとカトリック双方の聖書学者が翻訳に携わった「新共同訳聖書」が出版されました。新共同訳聖書には、旧約外典、すなわち「旧約聖書続編」が入った版の聖書も出版されています。2018年にはプロテスタント、カトリック共同の新しい翻訳聖書、「聖書協会共同訳」が出版されました。
(4) カトリックの各教会で宣教活動を行うのは「司祭」です。一般には、「司祭」は敬称の「神父」と呼ばれています。教会を地方ごとにまとめた行政単位を「教区」と呼び、「教区」は1人の「司教」が管轄しています。「司教」はローマ教皇が任命します。日本のカトリック教会は、16の教区に分かれています。「司祭」の中から「枢機卿」が任命されます。「枢機卿」はローマ教皇の顧問団の一員です。司祭、司教、枢機卿は男性で、結婚は認められていません。一方、プロテスタントは「牧師」と呼び、「牧師」は結婚することができます。
(5) カトリックの聖体拝領は、カトリックの洗礼を受けた信者のみが受けられます。ミサの最後に、神父の招きに従い、一人ひとり前に出て、パンとぶどう酒をいただきます。
(6) 1コリント11:23-26
(7) ローマ3:23
(8) ローマ6:23
(9) ヨハネ5:24
(10) カトリック教会には、よく聖母マリヤ像があります。カトリックも神は、三位一体の神だけです。ただマリヤや聖人も「祈りを神に取りつぐ」存在で、祈る対象でもあります。聖人とは、信仰のゆえに命を落とした殉教者や、生涯を信仰の証しした人たちのことで、信仰の模範としてあがめられています。プロテスタントでは、マリヤや聖人を崇拝の対象とはしていません。
(11) 16世紀の宗教改革の中心人物の一人がマルティン・ルター(1483-1546)です。ルターは司祭であり、神学博士でした。彼が強調したのは、①信仰義認、②聖書のみ、③万人祭司でした。
当時のカトリック教会の「贖宥状」の販売に対して、ルターが1517年ヴィッテンベルグ教会の門に「95ヶ条の論題」を張り出し、宗教改革が動き出します。罪のゆるしはイエスの十字架と復活を信じる信仰のみで与えられる聖書信仰の核心部分を明示しました。その福音の核心が書かれた聖書を、ルターはドイツ語に翻訳。一般の人々もドイツ語聖書を読めるように、人々への教育を実践しました。
(12) ローマ3:23,24