テット N.
薬物を乱用したときの症状は、Wi-Fiのネット接続が上手くいかず、途切れ途切れでつながるネット動画のようなものです。
夜、車を運転しているとき、赤信号に気づいて減速。車を何とか停車させたかと思ったら……なぜか寝室で、バスローブと緑のチェック柄のズボンをはいている瞬間にワープしています。
次に目の前に映し出される映像は、数時間後の別の場面に飛んでいます。この数時間で何が起こったのか?と慌てて考えこみます。しかし途中の記憶がまったくないのです。
次の瞬間に意識が飛ぶと、今度はポケットに手を突っ込み、ヘロインがまだ残っていたことに安心する自分に気づくのです。
その次の瞬間、車内に散らばったゴミの映像が目の前に現れます。さらに次の瞬間には、青い制服の警察官が車の窓ガラスをノックしています。吸いかけだったタバコをコーラの缶に入れ、窓を下げます。
もちろん私が薬物を吸引していることは、トップシークレットです。幸い警察官は、私の薬物乱用には、まだ気づいていません。警察官はなぜか、私がバスローブ姿で車を運転していることも、こんな遅くに車を運転していることも、また小刻みに手が震えていることも、何も質問しません。
警察官はただ「運転中、道に飛び出す野生の鹿がいるので、注意するように」と話しただけでした。スピード違反も取り締まることなく、警察官はパトカーに戻って行きました。私がただ疲れているだけに見えたのでしょう。
私はアルコールには強く、何杯も飲んでも、外見では酔っているようには見えません。実際、飲酒した後の方が意識がはっきりして、正常に近いように自分では感じていました。警察官の前では平静を装いました。しかし彼が行ってしまうと、失望が再び襲ってきました。
私はもともと一人でいることが好きでした。またどこか人を見下すようなところがありました。同時に、自分自身を恐れていました。「自分を放っておいたら、何をしでかすかわからない」と考えていたのです。
ふと気がつくと、台所の食器棚の引き出しを開けて、包丁を首筋に押し当てて、呆然と立っていることが何度もありました。死んでしまいたいけど、本当は生きたい……。心の奥底では、こう願っていたのです。
翌朝、目を覚ますと、そのまま台所の床で倒れている自分に気がつきました。どうも泣きながら、眠ってしまったようです。心が折れ、臆病になっていました。束縛されていると感じつつも、孤独で打ちのめされていました。
かつては私も、友人宅で開かれるパーティに参加しました。パーティ会場に着くまでは、いつも楽観的でした。しかしパーティ会場に集まった仲間の顔が目に入ります。もともと社交的ではない私は、無理に会話をしても、かえって疲れてしまいます。会話を楽しんでいるふりをしても、10分が限界でした。
タバコを吸うために外に出るふりをして、こっそり車に乗り込み、会場を後にしました。初めは会場の友だちから電話がかかってきて「おい、どこに行ったんだよ。戻って来いよ」と呼び戻されました。やがて電話も掛かってこなくなりました。
映画の中で、主人公が朝、自分には見覚えのない部屋のベッドで目を覚まし、昨夜どのようにここにたどり着いたのか思い出そうとする場面が出てきます。
でも実際は、自分のSUV車の運転席で目を覚まし、見覚えのないアパートの前で駐車していても、映画のような美しいワン・シーンだと感じたことは一度もありません。
汚れたカーペットから起き上がり、家までの帰り道を探すのに一苦労することがあっても、そんな自分を「馬鹿だな」と笑えたことは一度もありません。むしろ意識がないときに、とんでもない事件を起こしてはいないかと不安になります。
私は外に出るのが怖くなり、アパートの自室に引きこもるようになりました。外に出るのはタバコや酒を買うか、麻薬を手に入れるときでした。引きこもっている方が、安全だと思えたからです。自分が何かの弾みで殺人事件を犯してしまうのでは……と心配になることもありました。
結局、完全に「引きこもり」の生活になりました。ドアに鍵をかけ、何日も窓のブラインドも閉め切りました。確かに、孤立こそが狂気のレシピです。
麻薬や覚醒剤など違法薬物の乱用、市販薬の過剰摂取であるオーバードーズ(OD)、アルコール依存症、タバコ依存症……と依存傾向のある人は、身体的には成長していても、精神的には未熟な部分があるものです。
依存症を抱える人は、精神面で成熟する上で、何らかの障壁を抱える人とも言うことができます。自分の人生に、自分自身では責任を負えず、いつも人のせいにする傾向があります。
「人生はいかに悲惨なものか」「神がどんなにか残酷な存在なのか」を同時の私はいくらでも話すことができました。私がいつも不満ばかりを話すので、親身に聞いてくれる友人も減っていきました。
そんな私にとって、夜は唯一、安らぎを感じるときでした。欲にまかせて酒を飲み、薬物を接種し、マリファナを吸引。煙草を吸い、覚醒剤の注射を体に刺すのも決まって夜でした。自分の存在すらわからなくなる混乱に陥るようになるのも、決まって夜でした。
かつては飲酒や薬物摂取にも、目的がありました。開放感や興奮のために薬物を摂取しました。スカッとした気持ちや精神的高揚を求めていました。
しかし精神的な安定は、飲酒や薬物摂取では得られません。むしろ問題が深刻になります。当初は目的をもって使用した薬物も、乱用するようになり、さらには薬物に依存するようになったのです。私の精神的な逃避の手段が、皮肉にも脱出不可能な牢獄となったのです。
私はよく「もし神がいるなら、この状況から救ってほしい」と泣き叫びました。でも神からの救いの手がすぐに差し伸ばされない現実に怒りを覚えました。
毎晩、眠りに陥るとき、次の朝が来ることに恐怖を覚えました。スマホの着信音、ドアをノックする音、大学やバイトの勤務先で出くわす人々、そして何よりも自分自身に恐怖心を抱くようになりました。自分でも、自分が何をしているのかわかりませんでした。
パンにバターを塗っているとき、無性に手に持つナイフで喉を切り裂きたい衝動に駆られるときがありました。車で橋を渡るとき、ハンドルを切って、車ごと川に飛び込もうとしたこともありました。
車を運転する前に必ず、精神的な安定を求めて、その日最初の酒を一杯、ぐいっと飲み干しました。「きっと今日も一日、酒を飲み続けるんだろうな」と先行きが不安になります。
私は「死にたい」と願っていました。しかし私の葬儀を想像してみると、悲惨な現実にぶち当たります。
私の訃報を聞いても、だれもが「あいつは麻薬中毒だから、死んで当然だ」と感じることでしょう。私には取り柄もなく、ただあるのは悲惨な現実だけです。葬儀に来た人も、「生きていたら、将来きっと大きな可能性があったのに……」と根拠もない希望的観測を語ることしかできないでしょう。
両親は子育ての失敗を責め、恥と後悔の中で、残りの生涯を送ることでしょう。私が生きた記憶は両親にとって、人生のお荷物になることは明らかでした。
今こそ解決が必要でした。
私はついに薬物依存症の治療に取り組むことにしました。医療の力を借りて、少しずつ薬物の量を減らしました。並行して、グループによる認知行動療法を受けました。
でも治療を始めて数ヶ月間、解放の道のりがはっきりと見えてきませんでした。効果が見えにくい状況で、薬物を乱用したこの10年間を振り返りました。
この10年は無駄だったのでしょうか。依存症状にどう取り組めば良いのでしょう。過去を背負ったまま、どうやって前に進めば良いのでしょうか。神はこの10年間、何をしていたのでしょうか。私が見捨てられ、孤独を感じていたとき、神はどこにいたのでしょうか。
私が何十杯も酒を飲み、とんでもない量の違法薬物を乱用して、車で家に帰ったとき、神はともにいたのでしょうか。私が見知らぬ場所で目を覚ましたとき、神はそこにいたのでしょうか。考える中で、一つの出来事を思い出しました。
あるとき、早朝4時に自宅で湯船につかり、入浴中にそのまま意識を失ったことがありました。次に気がついたときは、なぜかベッドの上で横たわっていました。でも髪はまだ濡れたままです。何が起こったんだろう!?
入浴中に意識を失ったのに、バスタブの中で溺死することもありません。どのようにベッドに移動して、横になったのか。だれかが助けてくれたとしか考えられません。でも一人暮らしで、部屋には、私一人だけ。正直、だれが助けてくれたのか、見当もつきませんでした。
するとふと、こんな考えが頭にうかんできました。「あの朝、私はお風呂で溺れ死んでいたかもしれない。でも今生きているのは、神が介入して助けてくれたからではないか?」
でも、なぜ神は私の生命を救ったのでしょう。私にも生きる価値があるのでしょうか。私は世界に何の貢献もしていないのに……。
認知行動療法の自助グループに参加するようになりました。最初の数ヶ月は、何の進展も感じられませんでした。かえってヘロインを摂取していたときよりも、身体に疲れを覚えました。このグループに参加して、本当に効果があるのか。とても不安になりました。
でも何とか60日間、お酒も薬物もいっさい摂取せずに過ごすことができました。それでも私は、何かに支配されているように感じました。少なくとも薬物をしていたときは、麻薬が人生の苦悩を忘れさせ、一時的でも虚しさから解放してくれました。薬物を断って、私は弱りきっていました。
そんなとき自助グループで、自分の意志に頼るのではなく、さらに高次元の存在である「神」に頼るように聞きました。この10年間、私は絶望に打ちひしがれたとき、ぼんやりと神に祈ったことはありました。「もし神がいるのなら、私を助けてください。」
あまりにも状況が苦しいので、神に救いを求めて、無意識に神に祈ったという方が正しいでしょうか。しかし自分の意志を完全に、神に委ねることはできませんでした。
しかしある夜、私が一人で部屋にいたとき、感情的にどうすることもできなくなりました。一人自室で、正直に自分に向き合いました。
そしてなぜか神に、私の切実な願いを訴えていました。「神さま、私は変わりたいのです。この依存症状を、神さまにゆだねます。どうか助けてください。自分ではもうこれ以上、何もすることができないのです。」
こう祈って、床につきました。なぜか、その夜、ぐっすり眠れることができました。初めて体験した解放感でした。
その夜ささげた祈りは、明らかに今まで私が祈った祈りとは違っていました。あの夜、私は神にしか信頼できないという、切実な心で祈ったのです。
依存症状が最悪だった時期、「この苦しみの重荷から解放してくれるのは神だけだ」とおぼろげながら信じていました。それでも、私は自分の意志で何とかしなければと、意固地になっていたのです。
その夜、問題のすべてを、私よりもはるかに高いところにいる「神」に委ねることにしました。そのとき初めて「神ならば大丈夫、神が何とかしてくれる」と確信することができたのです。
多くの人々は、依存症は自分の意志で何とか克服できると考えます。しかし依存症は一種の自己虐待です。肉体的苦痛を受けることで、快楽を感じる「マゾヒズム」でもあります。
依存症だった私にとって、お酒と薬物なしで人生を過ごすことは、想像することさえ不可能でした。お酒と薬物がなければ、人生は破滅すると感じていました。違法薬物が唯一の友、私らしく生きる唯一の生き方だと思っていたのです。
このような板挟みの中で、私が「薬物をやめる」という自分の意志を貫くことは土台、無理でした。この板挟み状態を、神に頼ることなしに、この窮地をどうやって克服できるのでしょうか。
今思うと、ただ神に感謝しかありません。はるかに高い力をもつ創造主である神だけが、依存症の鎖を解き放つ力があるのです。
依存症は容赦なく人を束縛します。依存傾向は一見、解決不可能な強固な束縛です。 依存症に対抗するのは、自分の意志や人間の努力では不十分なのです。
しかし神の力には限界がありません。どんな依存症でも神の土俵に上げれば、悪魔の「いたずら」に過ぎないのです。神は薬物の束縛よりも力強い方です。
依存症とは、聖書に出てくる悪霊につかれた人の状況に似ています。依存症は、悪魔のお気に入りの武器です。依存症からの回復は信仰面での戦いであり、悪魔との戦いなのです。
私の受けた回復の自助グループでは、自分の弱さも包み隠さず分かち合います。そして、グループメンバーから、自分の弱さの中にこそ、神が働くことを教えてもらいました。
自助グループで毎回確認したことは、以下の通りです。依存症に対抗する力は、自分にはないことをまず認めます。同時に、神には依存症の鎖から解き放つ力があることを信じ、神に解放を求めます。たとえ今の自分にはそのような気持ちや感情がなくても、まず神を求めるとき、神が働くことでした。
聖書はこう語ります。「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」※1
私は、パウロが語ったこの聖書のことばに従いたいと願うようになりました。また、自助グループのメンバーもそう励ましてくれました。
薬物依存の経験は、私にとって非常に厳しいものでした。しかし今振り返ると、私にとってかけがえのない財産にもなっています。
今、私は薬物依存からの解放を願う人々の自助グループを導いています。かつての私のように依存症に苦しむ人々が、回復の道のりを見つけ、解放された生活を維持できるように手伝っています。私も同じ経験があるからこそ、今、依存症状で苦しむ人を助けることができるのです。
聖書にこうある通りです。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」※2
毎週、回復に向けて戦うメンバーが、お酒や覚醒剤の注射を打ちたいという強い葛藤を正直に話してくれます。彼らは自分の弱さを、グループに正直に語ります。
話すときは皆、目も合わせず、落ち込んでいます。そんな彼らに、私もよくこう声をかけます。「わかりますよ。私も今でも、同じ葛藤を感じますよ。」
すると、恥と重荷から解放されるようです。そこで、私がどのように薬物依存から解放されたかを話すのです。「目の前に薬物から解放された人がいる。自分にも奇跡が起こる」と、参加メンバーは受けとめるようです。
私が薬物依存から抜け出せたのは、まさに神の奇跡です。依存症に苦しむ人々の話を聞き、彼らの人生に起こる奇跡の一翼を担えることは、大きな特権です。
私は違法薬物とアルコールの依存症でした。人生の落伍者でした。数年前まで、この世界は私など必要としていないと思っていました。
しかしこんな私のために、神であるイエスは人となって、この地上に来ました。イエスは私の罪と、依存症という病気を背負って、十字架で死にました。
「まことに、彼(イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」※3
私はこのイエスの十字架を信じて、酒を断ち、薬物から離れました。それから半年も経たないうちに、再び大学に戻ることができました。
大学ではラテン語を専攻し、優秀な成績をおさめることもできました。夢にも思わなかったことですが、無事に大学も卒業できました。
イエスを信じて、神に祈ったあの夜以来、絶望を感じたことはありません。毎朝、聖書を読み、祈るときに、自分の意志を神にゆだね、神の意志に心を開くことだけです。神が私を通して働いてくれるように祈り、聖書で学んだことを実行しています。
神の存在に目をとめるとき、機会はどこにでもあります。恐ろしい状況を、神はすばらしいものに変えることができるのです。
今は神の代理人として、薬物依存の束縛の中にいる人たちを助ける働きができることを、神に感謝しています。
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脚注: (1) ピリピ4:8,9 (2) 2コリント1:4 (3) イザヤ53:4-5
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