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神が祈りに答えてくれる?

何か突発的な問題に遭遇するとき、私たちはとっさに「神さま、助けて」と心の中で祈るものです。祈りは答えられるのでしょうか。神が答える祈りとは、どのようなものでなのでしょうか。

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マリリン・アダムソン

神を本当に信じる人を、あなたはご存じですか 。私が無神論者だったとき、親友の一人がよく神に祈っていました。彼女は毎週のように、神に祈った内容を、私に話してくれました。そして、毎週のように、神が彼女の祈りに答える様子を見て、驚きました。正直に言うと、無神論の私が、毎週「奇跡」を目撃するのは、大変なことでした。最初は「偶然でしょう」で済ませたことが、毎週のように続くと、議論の予知もなくなります。

神との人格的関係

なぜ神は、親友の祈りに答えたのでしょう。最大の理由は、彼女が神との人格的な関係を持っていたからです。彼女は神に従いたいと願っていました。実際に、彼女は聖書から神が語ることばを読み取っていました。神は彼女の心に語りかけ、彼女の人生を導きました。彼女も神のことばに従いたいと願っていました。

彼女にとって、祈ることは自然なことでした。いろいろな必要や心配事、今抱える問題について祈ることは、彼女の楽しみでした。彼女には確信がありました。それは聖書からの確信であり、彼女が神を頼ることを、神が望んでいると信じているようでした。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」※1「主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。」※2 彼女はこの聖書の言葉を実践していたのです。

なぜ祈りが答えられないのか?

それは、すべての人が神との「関係」を持ってはいないからです。人々の中には神の存在を認め、中には教会の礼拝に参加している人もいます。それでも、祈りが答えられないのは、その人と神との「関係」がまだはっきりしていないからです。または、その人が神のゆるしを完全には体験していないからかもしれません。神との「関係」と祈りが答えられることと、何の関連があるのかと思うかもしれません。

聖書にこう書かれています。「主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」※3

神から離れていると感じるのは、自然なことです。何かを神に祈ろうとするとき、あなたはどうしますか。「神さま、助けてください…。」しばらく沈黙して、このように続けます。「神さま、私は完全ではありません。このように祈る資格もありません…。」

自分の罪や失敗を実感します。もちろん神は、私たちの罪をよく知っています。「こんな私の祈りを神が答えるなんて…」という思いがよぎるのです。どうすれば、神の完全なゆるしを受け取ることができるのかを、多くの人は知らないのです。また、神と人格的な関係が祈りが答えられる鍵であるとは、多くの人にはわからないものです。確かに、神との人格的関係が、祈りが答えられる基盤です。

祈りはどう働くのか?

まず、あなたは神との人格的な関係を持つ必要があります。それはなぜでしょう。

たとえば、あなたが実家を出て、一人暮らしを始めるとします。そして、アルバイト先の店長に、アパートの連帯保証人になってほしいとお願いしたらどうなるでしょうか。結果は、もちろん難しいでしょう。ではあなたが店長の娘だったら、どうでしょう。娘のあなたが下宿先の連帯保証人になることを頼んだら、問題なく同意してくれるはずです。「関係」があるとは、こういうことです。

イエスを信じる者は、神の子どもとされます。神の家族の一員とされるのです。神は私たちの存在を知っています。そのような私たちの祈りに、神は答えてくれます。

イエスはこう語ります。「わたしは良い牧者です。…わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」※4

あなたは本当に神を知っているでしょうか。また神はあなたのことを知っているでしょうか。神があなたの祈りに答えてくれると言えるほど、神との親しい「関係」を持っているでしょうか。または、神は遠くにいる存在だと感じますか。神が単なる生きる上での「概念」の一つになってはいませんか。もし神との距離を感じ、神を信じる確信がなければ、今、神との「関係」を始めることができます。

『神を知るには』をご覧ください

神が祈りに答える?

あなたがイエスを信じ、信頼しているなら、イエスはあなたの祈りにとても寛容です。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それがかなえられます。」※5

イエスに「とどまる」とは、いつもイエスを認めて生きるということです。またイエスのことばが私のうちに「とどまる」とは、聖書からイエスのことばに聞き、そのことばに信頼して生きるということです。イエスにとどまるとき、どんなことでも祈ることができます。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」※6

私たちが「神のみこころ」にしたがって祈るならば、神は必ずその祈りに答えてくれます。「神のみこころ」とは、神の願いのことであり、神の愛、知恵、聖さのことです。

人の限界

ただ問題は、「神のみこころ」を私たちは、自分は理解していると思い込んでいることがあるのです。私たちは、一つの祈りに一つの「正解」しかないと思っています。勝手に「これが神のみこころだ」と判断してしまいます。勝手な判断が問題を難しくします。

私たちは、限られた時間軸、限られた情報の中で、生きています。将来、何が起こるのか、私たちには限られた情報しか持っていないのです。他方、神の知識は無限大です。今起こっていることも、神は永遠の視点で見ることができます。私たちの理解を超えた目的を、神は持っています。

私たちは、自分の判断で「神のみこころ」を限定してしまいます。神は、私たちの限定された期待に沿って、働くわけではないのです。

神のみこころとは?

聖書全体の至るところに、神が私たちにしようとしている約束が、書かれています。聖書全体に、神と私たちとの「関係」はどのようなものか、神が私たちに与える人生がどのようなものかが、詳細に書かれています。いくつか例を挙げてみましょう。

「それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」※7

あなたを助けようと、神は椅子から立ち上がろうとしています。

「神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。」※8
「主を恐れる(敬意をもつ) 者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」※9

神のあなたに対する深い愛の表れがこの聖書のことばです。
イエスはこう語ります。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」※10 これこそイエスが私たちにしてくれたことです。

「私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」※11

神からの安心

確かに、私たちは病気になることも、死に直面することもあります。経済面での問題もあります。あらゆる困難や問題も出てきます。そんなとき、私たちはどうするべきでしょう。

聖書はこう勧めます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」※12

状況や環境のすべてを、私たちがコントロールすることはできません。全世界がどんなにひどい状況になっても、神は私たちを守ってくれます。イエスを信じることのすばらしさはここにあります。

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」※13

神は問題の解決を与えてくれます。それも私たちの想像を超えた方法で、問題への助けを与えてくれるのです。クリスチャンであれば、だれもがこのような体験を持っているはずです。たとえ状況が好転しなくても、神は問題の只中で、神からの平安を与えてくれます。

イエスはこうも語っています。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じように与えません。あなたがたは心を騒がしてはなりません。ひるんではなりません。」※14

神への信頼

困難な状況であっても神に信頼するようにと、聖書は勧めます。「見えるところではなく、信仰によって歩む」ように、聖書は教えます。これは、根拠がないものを闇雲に信じる、盲信ではありません。神と聖書のことばに信頼を置くのです。

瀬戸大橋のような海洋にかかる巨大な橋を、車で渡っているとします。橋は頑丈な橋脚で支えられています。運転する私の感情や考え、同乗者の不安は関係ありません。安全に対岸まで渡れるのは、堅固な構造体に支えられた工法、橋の構造そのものにあるのです。運転する私たちが信頼するのは、橋自体です。

同じように神も、私たちが神の誠実さ、神の「性質」に信頼してほしいと願っています。神は私たちにとって、いつくしみ深い方です。愛であり、知恵に富み、義である方です。

神はこう語ります。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、真実の愛を尽くし続けた。」※15

「民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」※16

神との人格的関係を持つには

どのように、神を信頼して、神との人格的な関係を持つことができるのでしょうか。神との関係を築く上で、一番の障害となっているものが、罪の問題です。人の罪を解決するために、神はご自分のひとり子であるイエスをこの地上に遣わしました。

聖書はこう語ります。「神は、実に、そのひとり子(イエス)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」※17

イエスは今から約2000年前、人となってこの地上に来ました。イエスはその教えと生き方をもって、神の愛をこの地上で示したのです。そして33年余りの人生のクライマックスが、イエスの十字架の死でした。

イエスは逮捕され、ムチ打たれ、拷問を受けました。そしてイエスの手と足は、十字架に釘で打ちつけられました。イエスのからだは炎天下、十字架に吊るされました。イエスは十字架の上で、息を引き取りました。

その日、イエスは墓に葬られました。しかしその3日後、イエスは死から復活しました。まさにイエスが以前、預言していたとおりでした。イエスの復活は、イエスが神であることを証明しています。

イエスはなぜ十字架で死んだのでしょうか。イエスは十字架で、人の罪をつぐない、代価を払ったのです。イエスの十字架と復活を信じる人は、罪がゆるされます。

あなたがすべきことは、このイエスを信じることです。そのとき、イエスとの新しい関係を始めることができます。

聖書はこう語ります。「しかし、この方(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」 ※18

イエスを信じるとき、私たちは「神の子ども」となる特権が与えられます。神との親子関係が始まります。

イエスを信じて、神との人格的な関係を始めてみませんか。もし神との関係を持ちたいとあなたが願うならば、以下の祈りを祈ってみてください。

「神さま、私はあなたに造られ、愛されていることを聞きました。私の罪をゆるすために、罪のないイエスさまが代わりに死に、よみがえられたことを感謝します。今、あなたに信頼します。どうぞ、あなたとの新しい関係の中で、私の人生をともに歩んでください。アーメン。」

神の愛

神は、その子どもたちの祈りに答えます。神の子どもとは、イエスを信じ、イエスとともに人生を歩む人のことです。

私たちにどんな心配事でも、神に祈ることができます。困難の中でも、神に祈りましょう。心配事を神にゆだねましょう。

聖書はこう語ります。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」※19

私たちが祈るとき、父である神が私たちのことを心配してくれます。祈るとき、神は心に平安と安心を与えます。

私たちの信仰と希望の根拠は、神の愛の「性質」にあります。神がどのような方かを深く知るほどに、さらに神に信頼できるようになります。愛である神は、あなたの祈りに答えたいと願って、あなたが今祈ることを待っているのです。

ぜひあなたの思いを、神に祈ってみてください。

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脚注: (1) 1ヨハネ5:14 (2) 1ペテロ3:12 (3) イザヤ59:1,2 (4) ヨハネ10:14,27-28 (5) ヨハネ15:7 (6) 1ヨハネ5:14,15 (7) イザヤ30:18 (8) 詩篇18:30 (9) 詩篇147:11 (10) ヨハネ15:13 (11) ローマ8:32 (12) 1ペテロ5:7 (13) ピリピ4:5-7 (14) ヨハネ14:27 (15) エレミヤ31:3 (16) 詩篇62:8 (17) ヨハネ3:16,17 (18) ヨハネ1:12 (19) 1ペテロ5:7

著者紹介

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