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「世界の宗教は細かい違いこそあれ、結局目指すところは一緒なのでは?」とよく聞かれます。はたして、そうなのでしょうか。ヒンドゥー教、仏教、神道、イスラム教、最近よく聞くスピリチュアル、そしてキリスト教の違いを見ていきましょう。

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マリリン・アダムソン

だれもが、成功した人生を送りたい、幸せな一生を過ごしたいと願うものです。世界の主要な宗教はどう語っているのでしょうか。宗教が、人生を成功へと導いてくれるのでしょうか。宗教が、私たちの人生に解答を与えてくれるのでしょうか。生きるべき方向性を与える役割を、宗教は十分に担っているのでしょうか。

本稿では、世界の主要な宗教について見ていきます。ヒンドゥー教、スピリチュアル、仏教、神道、イスラム教、そしてキリスト教を取り上げます。本稿はあくまでも各宗教の概略的な紹介です。各宗教が持つ神観、人生観、人生への貢献について見ていきます。最後に、イエスの教えを紹介して、各宗教との違いを説明します。

各宗教ともに、さまざまな宗派があります。本稿では誌面の関係で、各宗教の概要に触れる程度でしか、お伝えできません。世界には多くの宗教がありますが、その中でも信仰者数が多い主要宗教を取り上げます。また昨今、世界中で影響力があるスピリチュアルについても取り上げます。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教には、さまざまな男性神、女性神が登場します。神々は、神像や寺院、ガンジス川のような河川、牛のうちに宿っていると考えられています。そして神々全体を包括する最高神「ブラフマン」が存在します。

ヒンドゥー教では、今の社会的身分は、前世の生き方によって決まると信じられています。前世の振る舞いが悪いと、今の人生で苦しみに遭います。人生の不幸、病気や貧困、洪水、自然災害があるのは、前世の悪い行いのためです。

ヒンドゥー教の最終的な目標は「カルマ(身体と心の活動)」の法則から解放されることです。言い換えると「輪廻転生」からの解放です。「輪廻転生」とは、人の人生は絶えず、死と生を繰り返すというものです。「輪廻転生」で生まれ変わったとしても、人生は苦しいものです。いつの日か「輪廻転生」の繰り返しから解放され、永遠に安息を得ることがヒンドゥー教の目標です。この「輪廻転生」の考えは、仏教にも受け継がれています。

「輪廻転生」から解放されるために、主に以下の3つのことを行うことを、ヒンドゥー教では勧めています。

●ヒンドゥーの神々に献身する
●いろいろな宗教儀式や典礼を行う
●宇宙の根源である「ブラフマン」を瞑想する。ヨガも瞑想の一形態から出ています。

スピリチュアル

最近、運気、運勢、オーラ、パワースポット…という言葉をよく耳にします。これらの言葉に代表される信仰が、スピリチュアルです。スピリチュアルの目指すところは、人間が本来にもつ「力」を開発することです。人の内面に潜在的な「神性」があると、スピリチュアルでは信じられています。スピリチュアルが言う「神性」とは、人の内にある高度な意識のことです。

スピリチュアルはヒンドゥー教に似ています。多くの男性神、女性神が登場します。天使も出てきます。スピリチュアルは多くの宗教の良い部分を取り入れます。占いも重視されます。地球をパワーの源と見なしています。地球自体に知性、感情、神性があると考えているのです。

しかしパワーを持つものを崇拝する目的は、私たちの「自我」を高めるためです。「自我」が高められると、人が見るもの、聞くもの、感じるもの、想像するもの、すべてが「神的なもの」に感じるのです。

スピリチュアルの皆さんは、数々の講演やセミナーに参加します。書籍から、各宗教の良いところを学び、自分の信仰に組み込みます。東洋の神秘主義、インド哲学、風水、心霊術、超能力、占いを学びます。天使に関する物品やパワーストーンを持ち歩きます。気功、呼吸法、詩吟、音楽、太鼓、ヨガ、瞑想を行い、意識を変革させ、自らの「神性」を開発します。

自己啓発された「自我」が、人生のすべてを支配できると、スピリチュアルでは考えます。自分が神々の一人となり、自分の現実を生み出していくと考えるのです。

仏教

本来、仏教ではどんな神も礼拝しません。しかし「仏教でも、お釈迦さまを礼拝しているのでは?」と疑問に思うかもしれません。しかし釈尊(釈迦・ガウタマ・シッダッタ)が自らを神だと宣言したことはありません。釈尊は、むしろ「悟り」に到達しようした人です。「悟り」とは「生老病死」の執着、我欲を捨てた状況のことです。「悟り」を得た人は、死後の「輪廻転生」から解放され、「浄土」で安息を得ることができると考えられています。

仏教では、人生は苦しみと捉えます。「輪廻転生」も苦しみの繰り返しです。むしろ「悟り」を得て、「輪廻転生」から解放され、釈尊が到達した「浄土」で安息を得ることが最終目的地です。しかし、たとえ家族や仕事、地位や名誉を捨てたとしても、心の内側にある執着心、煩悩を捨てることは非常に困難です。

タイやミャンマーに伝わった「小乗仏教」では、「浄土」に行けるかはあくまでも個人の修行の結果です。男性は青年期の一定の期間、出家をして、瞑想修行に励ます。仏教の瞑想は自己鍛錬の一手段です。個々人が瞑想修行をすることで、煩悩を吹き飛ばし、涅槃(ねはん)の境地に到達することを目指しています。

一方、日本に伝わった仏教が「大乗仏教」です。「大乗仏教」でも、個々人の「悟り」に向けた瞑想修行を大切にします。しかし人が煩悩を完全に捨て去ることは、極めて難しいものです。足りない分は、すでに「悟り」を得た釈尊にすがり、救ってもらうおうと願います。これを「他力本願」と言います。

「大乗仏教」は日本に伝来し、先祖供養が加わりました。死んだ先祖の罪を、家族が供養することで、埋め合わせをすることができると考えます。人が死ぬと、家族が親戚縁者を呼んで、葬儀を行い、死者を葬ります。定期的に家族で供養を続けます。先祖供養は、家族の大切な行事です。日本仏教は個人の信仰というよりも、家の宗教です。

神道

神道は、日本古来の民俗宗教です。教祖や経典はありません。先祖崇拝と自然崇拝が中心です。自然界に八百万(やおよろず)の神々が宿っていると考えます。自然災害は、神々の怒りだと考えます。自然界の神々の怒りをおさめ、共存共栄をはかろうとします。

人が自然界に入るとき、そこに宿る神々の怒りに触れないよう、細心の注意を払います。例えば、家を建てるときは、その土地の神々にお供えをし、お祓いをします。建てた家に祠や神棚を設置します。自然に宿る神々と対立せず、調和を求めます。

地域の神々が宿るのが神社です。神社には「ご神体」となる剣や鏡、宝石が安置されます。また神々が「依代」(よりしろ)として宿る神木、石、滝、山を祀ることもあります。

農耕文化の日本は、家族、集落ごとに神々にお祭りをし、神社を支えてきました。神道は家族ぐるみ、地域ぐるみの信仰でした。

イスラム教

イスラム教では、唯一神であるアラーを信じています。アラーは人間を超越した存在です。アラーが全宇宙を創造しました。この世界で起こるすべての出来事は、アラーの意志によって起こります。アラーは力ある神です。同時に、厳格な裁き主でもあります。良い行ないをし、宗教的に忠実なムスリム(イスラム教徒)には、アラーはあわれみ深い神です。ムスリムはアラーの「しもべ」という認識です。

イスラム教では預言者たちを尊敬しています。イエス(イサ)もイスラム教の預言者の一人です。しかし、ムハンマドが最後にして最高の預言者です。ムハンマドの言葉と生き方には、特別な権威があります。

ムスリムは5つの宗教的な義務を遵守することで、天国に行けます。

●アラーとムハンマドの信条を唱える
●一日に5回、アラビア語の祈りを唱える
●貧しい者に施しをする
●毎年の1か月間「ラマダン」を守る
●生涯に一度、メッカに巡礼に行く

「ラマダン」とは、毎年1ヶ月間の断食月です。日出から日没まで断食をし、禁欲的な生活を守ります。これら5つの義務を忠実に果たすことで、死後、天国に入る希望を持つことができます。守らないと、永遠のさばきを受けて、地獄に落ちます。

イスラム教の経典は「コーラン」です。ムスリムは「コーラン」に従い、善行を行うことで、アラーを礼拝しているのです。そして死後、生前のアラーへの献身の度合いによって、天国に行くのか、地獄で裁きを受けるのかが決定されます。

キリスト教

クリスチャンが信じる神は「三位一体」の神です。「三位一体」の神は、永遠の存在です。全世界も「三位一体」の神が創造しました。この神は愛の方です。神は、私たちと個人的な関係を持つことを願っています。

この神が人となって地上に来たのが、イエス・キリストです。イエスは単なる預言者や教師ではありません。イエスは自らを神だと語りました。イエスは地上で多くの奇跡を行いました。イエスは人々の罪をゆるし、信じる者に永遠のいのちを与えます。

クリスチャンは、聖書を神が全人類に与えた啓示の書物だと信じています。聖書は同時に、イエスの生涯の歴史的な記録でもあります。聖書は神の愛を明らかにしています。また聖書は、どのように神との関係を築いたら良いのかを、説明しています。

クリスチャンはまた、自分を含めて、全人類が罪人だと考えます。イエスは救い主であり、旧約聖書で預言された救い主です。イエスはその愛のゆえに、全人類の罪を背負って、十字架で死にました。そして死の3日目に、死から復活しました。イエスの復活は、イエスが神であることを示しています。このイエスを信じることで、人は救われます。

世界の宗教 違いは?

今まで、世界の主要宗教について見てきました。各宗教の信条や神観は非常にユニークです。比較すると、違いが大きいことがわかります。

●ヒンドゥー教は、多数の神々を信じます。
●スピリチュアルは、自分自身に「神性」があると考えます。
●仏教は、神はいないと考えます。
●神道は、八百万の神々を信じています。
●イスラム教は唯一の神アラーを信じています。
●キリスト教は「三位一体」の神を信じています。

ヒンドゥー教の神々には、人間的な側面があります。神道の神々は、できれば関わらない方が良い存在です。ムスリムが信じるアラーは、厳格な神です。聖書の神は、人を愛し、人と個人的な関係を持ちたいと願う方です。

結局、どの宗教も目指すところは一緒だと考える人がいます。神々の形態は違うけれど、結局は同じ神を礼拝しているに過ぎないと、考える人もいます。はたして、そうなのでしょうか。

スピリチュアルでは、自己啓発で「自我」を磨いて、自分が神々の一人になろうとします。しかしムスリムにとっては、神は唯一、アラーだけです。自分が神になるなど、絶対にあり得ません。仏教も、死んで仏になり「浄土」に行くことがあっても、世界を創造した神になることはないのです。

個人の信仰 家族の宗教?

世界の主要宗教のそれぞれが、とてもユニークです。多くの宗教は、信じる個人の信仰です。信じる個人が瞑想や修練を通して、霊的な完成を目指します。

ヒンドゥー教では、道徳的に生きることで「輪廻転生」から逃れようとします。スピリチュアルは自己啓発により、個人の「神性」を磨こうとします。小乗仏教は各個人が瞑想修行することで、我欲から解脱することを求めます。イスラム教は、死後に天国に行くため、コーランの教えを守るように教えます。

一方、大乗仏教や神道は「家の宗教」です。農耕文化の中で、家族や地域共同体が協力しなければ、大自然を相手に生活できなかったからです。家族、地域ごとで寺の檀家、神社の氏子になります。「我が家の宗教は○○宗です。」「この集落は○○神社の氏子です」とよく聞きます。しかし現在では、日本でも個人主義が広がり、共同体意識は希薄になってきました。家族の法事や、地域のお祭りが簡素化されていく現在です。

宗教共通の課題

だれも完全な人はいません。だれもが人生で、挫折や失敗を経験します。どのように挫折や失敗に対処すれば良いのでしょうか。これらの人生の課題に解決を与えるために、各宗教が生み出されたのかもしれません。

人はまた、心の平安を求めます。迷わず、確信をもって物事を決断したいのです。心を強くするため、瞑想をし、宗教儀式を行います。自己啓発の本を読み、断食や祈り、善行や寄付行為をし、占いもします。先祖供養もします。巡礼にも出かけます。

心と生き方が改善し、罪深い性質が変わるため、人は宗教行為をがんばるのです。仏教の教祖、釈尊は「悟り」を求めて修行をしました。我欲は感じなくなったのかもしれません。しかし釈尊は「自らの罪深い性質がなくなった」とは語りませんでした。ムハンマドも、アラーのゆるしを常に求めていました。

「どれほど聡明で、才能があり、影響力がある教祖であっても、私たちと同じように、自分が不完全であることを強く認識していたのです。」※1

犠牲

多くの宗教では、罪を犯したとき、当事者が何らかの犠牲を払うことが求められます。日本の神道や仏教では、かつて、罪を犯した者が出た場合、その家族を村八分にして、村落共同体から締め出しました。村八分にすることで、当事者に罪を認識させたのです。

ヒンドゥー教では、神聖な火が罪や苦しみ、逆境に打ち勝つために用いられました。罪の犠牲に動物犠牲をささげる宗教もあります。他にも、罪に打ち勝つため、毎日何時間も瞑想することが求められます。宗教によっては、断食の期間も設けられました。寄付や献金をささげる必要もあります。長い巡礼の旅に出る必要がある宗教もあります。

預言者イザヤは、キリスト教をはじめ、ユダヤ教、イスラム教でも尊敬されています。イザヤは、罪の犠牲を私たちがささげる代わりに、救い主(メシア)が来ることを預言しました。救い主が全人類の罪の代価を支払うのです。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎(罪)を、彼に負わせた。」※2

イエスは、自分が預言者イザヤの語った「救い主」であるという認識を持っていました。イエスは、弟子たちに自分がどのような死に方をするのか、事前に予告しました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」※3

罪のゆるし

確かに、イエスはムチ打たれました。殴りつけられ、額にはいばらの冠をつけられました。イエスの手足は、十字架に釘づけにされました。イエスは自ら私たちの代わりに、十字架で死ぬことを選んだのです。

預言者イザヤはこうも語っています。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた。…彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」※4

聖書はまた語ります。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」※5

私たちの罪ののろいを、イエスが身代わりに背負って、十字架に付いたのです。このイエスは、私たちに完全なゆるしを与えます。神のゆるしを無償で受け取るように、神は私たちを招いているのです。

イエスの死と復活

イエスの公生涯を通して、何千人もの人々がイエスに従いました。イエスは数え切れないほどの奇跡を行いました。病気をいやしました。足の不自由な人が歩けるようになりました。視力を失った人が、見えるようにもなったのです。男性だけで5,000人に、奇跡的に食事を提供しました。

他の宗教の教祖と決定的に違うのは、イエスは自分を「神だ」と主張したことです。イエスは、自分が人々の罪をゆるし、永遠のいのちを与えると語りました。イエスはまた、祈りに答えることも約束しています。そして世の終わりに、イエスが全世界に審判を与えることも語ったのです。これらは神だけにしかできないことです。イエスは何度も、自分が神と等しい存在であることを語りました。その結果、イエスは十字架につけられたのです。

イエスの十字架と復活こそが、イエスが神であることを示す決定的な証拠です。イエスは死んで3日目によみがえることを、事前に語っていました。

当時の為政者は、軍隊を派遣し、イエスの墓を厳重に警備させました。それにも関わらず、3日目の朝、イエスの墓は空になっていたのです。復活したイエスを、多くの人々が目撃しました。のちに彼らが、イエスの復活が証言しています。

イエスの復活は今や、世界中に伝えられています。それはイエスを信じ、神のゆるしと永遠のいのちを受けた人々が、世界中でその証言しているからです。彼らの語るメッセージは明確です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」※6

イエスについてもっと知りたい方は「見えない信仰の向こうに」をご覧ください。
https://www.studentinjapan.com/a/jes7.html

イエスは、あなたに永遠のいのちを与えます。イエスはまた、あなたの人生をともに歩みたいと願っています。

他の宗教との違いは?

多くの宗教は、人の努力に焦点を当てます。自己啓発や瞑想修行、戒律の遵守、お布施など、人の努力で罪の埋め合わせをする必要があるのです。しかし聖書は、私たちが何も持たず、ただ神のもとに来るようにと招いています。

多くの宗教では、完全な聖さを目指して努力します。しかし戒律を守ることがかえって、重荷になるのです。どんなに努力して修道に励んでも、それでも神との間の距離は縮まりません。宗教的努力や善行は貴いものです。しかし、罪ある人間の努力では、自分の罪の埋め合わせることはできません。

ただイエスを救い主として、信じてください。イエスの十字架の身代わりの死と復活のゆえに、神は私たちのありのままを受け入れてくれます。イエスを信じる信仰で、私たちは救われるのです。

宗教ではなく、関係

神は、あなたがこのイエスを信じることを願っています。あなたは神との関係を築きたいですか。もしあなたがそう願うならば、今、神とつながることができます。神のゆるしを求めましょう。イエスをあなたの人生に招きましょう。

イエスは語ります。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」※7

今、心の扉を開いて、イエスをあなたの人生に迎えましょう。以下のように祈ってください。どのような言葉で祈るかよりも、どのような心で求めているのかが大切です。次のように祈ることで、イエスを受け入れることができます。

「神さま、私はあなたとの新しい関係を始めたいのです。私の罪をゆるすため、イエスさまが代わりに死に、よみがえられたことを感謝します。今、あなたを信頼します。イエスさまを私の罪からの救い主、人生の導き手として信じます。どうぞ、あなたと親しく生きる人生を歩ませてください。」

今、神にこう祈ったのなら、あなたと神との関係が始まったのです。あなたは直接、神に語りかけ、話すことができます。神があなたの人生を導きます。

他の宗教と違うところは、イエスが単に、歩むべき人生の道を指し示すだけではないことです。イエスは、歩むべき道を、あなたと一緒に最後まで歩んでくれます。

哲学や宗教儀式は必要ありません。あなたが個人的にイエスを知り、イエスを愛するようになることを、神は願っているのです。神との関係をどのように成長させたら良いのかは、以下のページをクリックしてください。

 イエスを信じました。成長の助けになる情報はこちらから
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脚注: (1) Erwin W. Lutzer, Christ Among Other Gods (Chicago: Moody Press,1994), p. 63 (2) イザヤ53:6 (3) マタイ26:28 (4) イザヤ53:5,12 (5) 1ヨハネ3:16 (6) ヨハネ3:16 (7) 黙示録3:20

他の宗教とイエスの違いに関しては以下のページもご覧ください。
https://www.studentinjapan.com/a/jes3.html

死んだらどうなるのか?死後の世界はあるのか?に関してはこちらをご覧ください。
https://www.studentinjapan.com/a/eni2.html

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